原作はスティーブン・キングがリチャード・バックマン名義で書いた同名小説。
監督は『ハンガー・ゲーム』シリーズのフランシス・ローレンス。
主演は『リコリス・ピザ』のクーパー・ホフマン。
物語
戦争によって国家が分断された近未来のアメリカで国をあげて開催される競技“ロングウォーク”。
ただひたすらに歩き続けるだけで破格の賞金と願いを1つ叶える権利を獲得できるこの祭典に、選ばれし50人の若者が挑戦する。
「時速4.8kmをキープすること」
「速度を下回り警告を受けないこと」
「最後の一人になるまで歩き続けること」
この勝者になる為のルールの裏に、休息も睡眠も救いも存在しない。3つ警告を受けると即死の状況下で臨む、地獄の一本道の先に待ち受けるのは希望か、絶望か——
(公式サイトより抜粋)
ルールは歩き続けるだけ
原作小説はスティーブン・キングがリチャード・バックマンという名前で出版した幻の処女作みたいなものらしい。この小説も『ランニング・マン』と同じ頃に書かれていて、どちらもデス・ゲームの元祖と言われることもある作品だ。
今年、公開された『ランニング・マン』の場合は実際に殺し合うことになっていたけれど、『ロングウォーク』の場合はそういう派手な場面はない。基本は歩くだけで、別の参加者に過度に干渉することは禁止されている。
ルールはいたって簡単で、ただ歩き続けることだ。ただし、一定の速度を下回ると警告が与えられ、それが3回続くと次はない。4度目はなく、参加者は撃たれてレースから脱落することになるのだ。
設定された時速4.8kmというのはそれほど難しいスピードではない。だから最初はピクニックみたいな雰囲気すらある。参加者=ウォーカーは様々にグループを作り、おしゃべりしながら先に進むことになる。
ただこのレースに休憩というものは一切ない。トイレ休憩もなければ、食事休憩もないし、もちろん睡眠だって確保されるわけもない。ただ歩き続けるだけのことも、それが半日も連続するとなると地獄と化す。そして、このレースは始まったらただひとりが生き残るまで終わらないのだ。
ウォーカーたちは最初は楽しそうですらある。“ロングウォーク”がとんでもないレースであることは知りつつも、それを現実のこととは認識していないようでもある。そんな時、最初の犠牲者が出る。この少年の殺され方が何とも残酷だった。まだ幼いと言えるような少年は、兵士の銃弾によって顔を撃ち抜かれて死ぬことになる。ウォーカーたちはそこでようやく自分たちが参加しているレースの実態を知ることになるのだ。

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原作と映画版の違い
映画版で主人公のギャラティを演じるのがクーパー・ホフマンだ。ぽっちゃり体型のクーパー・ホフマンだけに、そんな過酷なレースで生き残るのは無理そうに見えてしまうといったツッコミもあるだろうし、基本は少年たちが歩きながら会話をすることが続いていくわけで単調になってしまっているところがあるのは否めない。
しかしながら個人的に一番気になったのは、ギャラティがロングウォークに参加した理由だ。これに関しては映画独自の設定になっている。ギャラティは最初からロングウォークの主催者とも言える少佐(マーク・ハミル)に対して嫌悪感を抱いている。それがなぜかは後半になって明らかになる。
回想シーンで明らかになるのは、ギャラティの父親は反体制派みたいな人で、少佐によって殺されたらしい。ギャラティはその復讐のために、少佐を殺すことを目的としてロングウォークに参加しているという設定なのだ。
この原作からの改変が、映画版を原作とは違うものにしてしまっている気がするのだ。原作者のキングは製作総指揮にも関わっているらしいので、原作に仄めかされていたかもしれない別の結末を映画化したということなのかもしれないのだが、どうもその改変が原作のよい部分を損なってしまっていたような気がするのだ。


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歩くことは生きること
劇中ではなぜロングウォークという不思議なレースが開催されているかについての説明もある。この世界のアメリカは分断された状況で、何かしらの国威発揚の意味でロングウォークが行われているのだという。ロングウォークはテレビ中継され、多くの国民がそれに熱中することになるのだ。
具体的にこの世界がどんな状況になっているのかはわからないけれど、このデス・ゲームも政府が何かしら隠したいことがあり、それから大衆の目を逸らすためにあるという点では『ランニング・マン』と同じなのだろう。
映画版のギャラティはそんなロングウォークをクソだと思いつつそれに参加し、さらに少佐を殺して何かを変えようとしている。あるいはそうでなくとも父親の仇を討つつもりになっている。そんなキャラクターになってしまっている。
一方で原作小説ではどうなっていたのかと言えば、少佐がギャラティの父親を殺したというエピソードはないし、ギャラティ自身もなぜロングウォークに参加したのかをよくわかっていない。それに関してはほかの少年も同様だ。
その唯一の例外はステビンズだろう。ステビンズは原作でも映画版でも少佐の私生児であることが明らかになり、彼だけはロングウォークというものを知り尽くしているし、明確な目的を持っていたのは彼だけだったとも言える。その点で、ほかのウォーカーとは異質な存在になっているのだ。
ギャラティやほかのウォーカーたちが明確な目的意識を持っていないこと。それがなぜ重要な要素なのかと言えば、だからこそロングウォークという歩くことが人生そのもの、生きることそのもののメタファーにも感じられてくるということじゃないのだろうか?

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負けは決まっている?
私はこの原作を持っていて(古いバージョンで『死のロングウォーク』というタイトルだ)、すでに一度は読んでいたし、映画を観た後に再読してみたのだが、ギャラティの目的意識の差異が違和感として残ったのだ。
ロングウォークというレースは人気があり、誰もがそれに出たいと感じているという設定だ。もちろん賞金が目当てだと語る少年もいるけれど、そのためにはほかのウォーカーを蹴散らして最後まで生き残る必要がある。
だから映画版では49人が死に(原作では99人が死ぬ)、ひとりが生き残ることになる。そんなレースが割に合うと考えるほうが狂っているようにも思えるけれど、ウォーカーたちはなぜか自分でもよく理解せずにそれに参加してしまう。そして、歩き始めた後になって後悔するのだ。
でもこれは人生だって同じことだろう。自ら生まれようとして生まれてくる人はいないわけだし、目的意識を持って生まれ人もいない。そして、誰もが結局は死ぬことになるわけで、「負け」というものは決定しているのが人生というレースと言えなくもない。
原作では映画版と異なり最後に生き残るのはギャラティだが、その終わり方は歓喜に満ちているわけではない。ギャラティすらも狂ってしまったかのようにも思えるラストに勝者の姿はない。こういう点でもロングウォークというものが人生そのもののメタファーになっていたようにも感じられるのだ。
映画版はギャラティが明確な目的意識を持ち、それをマクヴリーズ(デヴィッド・ジョンソン)が彼に代わって成し遂げたみたいな形になっているけれど、その改変のせいで原作にあった大事なものが失われてしまったような気もするのだ。




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