原作はヴァネッサ・スプリンゴラの同名小説。この小説は有名作家ガブリエル・マツネフのことを告発したもので、フランスでは大いに話題となったらしい。
監督・脚本は『マイ・エンジェル』などのヴァネッサ・フィロ。
原題は「Le consentement」。
物語
文学を愛する13 歳の少女ヴァネッサは、50歳の有名作家ガブリエル・マツネフと出会う。彼は自身の小児性愛嗜好を隠すことなくスキャンダラスな文学作品に仕立て上げ、既存の道徳や倫理への反逆者として時代の寵児となった著名人だった。やがて14 歳になったヴァネッサは彼と<同意>のうえで性的関係を結び、そのいびつな関係にのめり込んでゆく。それが彼女の人生に長く暗い影を落とす、忌むべきものになるとも知らず……。
(公式サイトより抜粋)
ある作家への告発
本作はフランスで話題になった小説の映画化だ(日本でも翻訳が出ている)。2020年に出版された『同意』という本が、フランスで大いに話題となったのは、それがある作家への告発本だったかららしい。実際の小説内ではその作家の名前はイニシャルで記されているだけらしいのだが、フランスにおいてはみんなそのイニシャルが誰のことを指し示すのかを理解していたようだ。
この有名作家がガブリエル・マツネフという人で、告発したのはヴァネッサ・スプリンゴラという女性だ。ヴァネッサは13歳くらいでガブリエルと出会い、14歳くらいで性的関係を持つようになったらしい。それから35年の月日が流れ、2020年になってヴァネッサはガブリエルを告発する本を出版したということになる。
このことによってガブリエル・マツネフの本を出版していた出版社は警察の家宅捜索を受けることになり、彼の本は出版を差し止められることになったらしい。そうした意味ではヴァネッサの告発は成功したということになるのかもしれないけれど、それを映画化した『コンセント/同意』はなかなか難しい問題を孕んでいるようにも感じられた。
時代によって変わる評価
小児性愛(ペドフィリア)なんてものは、認められるはずもないおぞましい行為という評価が確定的になっているけれど、かつてはどうもそうではなかったようだ。
ガブリエル・マツネフは小児性愛者であることを自認し、それを大っぴらにしていただけでなく、それを作品に書いて生業ともしていたのだ。しかもそれによって文学的にも評価されていたのだ。
もちろんそうした作品に眉を顰める人がいないわけではない。劇中で引用されている討論会では、ただひとりの勇気ある女性が彼のことを公然と非難するのだが、その後に続くものはいなかったらしい。それどころかその女性のほうがフランス文壇において袋叩きのような状態になったのだという。今となっては信じ難いのだが、ガブリエル・マツネフは積極的に評価されていたのだ。
これがなぜなのかはわからないけれど、時代的にそういう流れにあったということなのだろう。たとえばマルキ・ド・サドは不道徳の極みのような小説を書いた。サドの小説は19世紀には禁書扱いだったけれど、20世紀になると評価されることになった。本作で描かれる時代は1980年代の半ばということになるが、この時代も不道徳というものが文学という名の下に評価されるような時代だったということなのだろう。
時代によって評価が変わる作品というものがあるけれど、ガブリエル・マツネフの小説はその当時はうまく時代の潮流に乗っていたということなのだろう。そして、昨今の「#MeToo運動」などの流れの中で今度は逆に総スカンを喰らうことになったということになる。
性的シーンをどう見るか?
『コンセント/同意』を観た人の感想を読むと、軒並み「小児性愛者に対するおぞましさ」について言及されている。スキンヘッドのサングラス中年が幼い少女に対して性的行為をする。このこと自体は確かにおぞましいものではあるし、これでも十分告発になっているのかもしれない。
それでも私は二人の関係を美しいものとして描いてしまっている部分もあると感じた。ヴァネッサ(キム・イジュラン)はガブリエル(ジャン=ポール・ルーヴ)に騙されている。ガブリエルは自分に都合のいいことを「愛」だと語り、ヴァネッサをうまく支配し操っていくのだ。
とはいえ、当時のヴァネッサはそのことに気づいていない。完全にガブリエルを信じ切って、愛し愛されていると勘違いしている。そうした中で、彼との行為に陶然としてしまう時があったことも描かれている。ヴァネッサの中ではガブリエルとの行為は崇高な愛の行為となっていて、それを美しいと感じているようにも描かれているのだ。
本作では二人の性的な行為を詳細に描く部分もある。ヴァネッサを演じたキム・イジュランは撮影時には成人だったようだが、あどけない表情を見せる時もあり若く見えるわけで、ヘタすれば小児性愛者が楽しんでしまう映画にもなりかねない。小児性愛者を告発するための映画が、少女の裸が見どころの作品として小児性愛者に消費される可能性があるということでもあり、そんな意味でかなり微妙な感じもしたというわけだ。
小児性愛のおぞましさという点では、『マンティコア 怪物』のほうがもっとゾクゾクさせるようなところがあったと思う。『マンティコア 怪物』では、小児性愛者である主人公がするおぞましい代替行為は観客には秘されることになる。だから観客としては想像するしかないわけだが、それだけに余計におぞましい感じもしたのだ。
そもそも本作のガブリエルは自分の行為を恥じていない。そこには何の禁忌もないわけで、おぞましさも低減するということかもしれない。一方の『マンティコア』の場合は、主人公は自分の行為が許されないことだとわかっている。そうした禁忌に対する侵犯というものが、おぞましさを増大させることになるのかもしれない。
もっとおぞましくあれ
本作のタイトルは「同意」だ。これはもちろん性的な同意ということであり、前回取り上げた『HOW TO HAVE SEX』でも重要な焦点となっていた。確かに本作のヴァネッサはガブリエルに対して同意していたかもしれないが、それは後に“過ち”だったと知ることになる。
13歳か14歳くらいの子どもに判断する能力があったのかということになるわけだが、ヴァネッサの母親(レティシア・カスタ)は彼女の行動を制御しようとして失敗する。この母親の行動がちょっと混乱気味で、慌ててガブリエルからヴァネッサを引き離そうとしてみたり、逆にガブリエルに味方してみたりと、どういうつもりなのかがよくわからないのだ。子どもにも自主性はあったとしても、ある程度の年齢までは保護者が責任を持つべきということを、この母親が逆説的に示しているとも言える。
原作者が原作小説を書いたのは、ガブリエルという作家を告発するためだったはずだ。だとすれば、ヴァネッサは過去の自分の過ちを認め、ガブリエルのような小児性愛者をもっとおぞましいものとして否定すべきなような気もするのだが、本作はそのあたりがちょっと弱いような気もした。
「ガブリエルはヴァネッサの父であり、恋人であり、師匠でもある」といったことを、ヴァネッサは吹き込まれていたけれど、もともと文学少女だった彼女としては、最後まで文学の師匠ということに関しては尊敬の念みたいなものを捨てきれなかったのだろうか? ガブリエルがヴァネッサとのことを書いたとされる『日記』という小説が朗読されたりする部分もあるのだが、その文章が特別に素晴らしいものとはまったく思えなかったのだが……。
本作では、ヴァネッサが過去の自分の行為を客観的に見ているような場面もあって、そのあたりで自分が性的に搾取される立場だったことに気づいたということなのだろう。この部分がもっとインパクトがないと、最初に美しいものとして描かれた二人の関係が、反転しておぞましいものへと変化することにならないんじゃないだろうか? そこが今ひとつピンと来なかったし、大人になったヴァネッサがラストで小説を書き始めることになるには強烈なきっかけが必要なのだと思うが、そのあたりもぼんやりとしていてちょっと尻つぼみだったように感じられた。
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