『七夕の国』 窓の外には何が?

ドラマシリーズ

原作は『寄生獣』などの岩明均の同名漫画。

監督はテレビドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』瀧悠輔や、佐野隆英川井隼人など。

主演は『町田くんの世界』などの細田佳央太

ディズニープラスにて全10話のドラマシリーズとして配信中。

物語

あらゆるものに小さな穴を開けるという、ちょっとした<超能力>が使えるのが取り柄の大学生・南丸洋二。南丸はある日、民俗学の教授・丸神から呼び出しを受けた。だが丸神教授は調査のため「丸神の里」に赴いた後に失踪。残された研究生から心当たりを尋ねられた南丸だが何も分からない。同じ頃、丸神の里で不可解な殺人事件が発生。失踪した丸神教授の研究内容と足取りを追って、南丸は丸神ゼミのメンバーと丸神の里へおもむく。そこで南丸たちは、古来よりこの地に伝わるある一族の<超能力>や、不気味な季節外れの「七夕祭り」の謎に巻き込まれていく。

(公式サイトより抜粋)

岩明均の隠れた傑作?

すでに映画化もされている『寄生獣』はもちろん傑作漫画として名高い作品だが、同じ作者・岩明均の作品として強く印象に残っているのが『七夕の国』だ。傑作『寄生獣』に隠れてしまっているけれど、もしかすると『七夕の国』だって負けていないのかもしれない。そんな気持ちにすらさせる漫画が『七夕の国』なのだ。

確かに奇妙な作品ではあるのかもしれない。『七夕の国』では不思議な超能力が登場することになるのだが、この能力はあまり役に立たない。超能力があってもスーパーヒーローになれるわけでもなく、主人公のナン丸は就職すらできずに悩むことになる。

物語はある殺人事件から始まることになり、騒ぎはどんどん拡大していくのだが、なぜかあっさりと単行本で全4巻という意外な短さで終わってしまうことも奇妙さの要因になっているのかもしれない。

このドラマシリーズは先月から配信がスタートし、8月8日に最終話である第10話が配信され完結した。最初の印象としてはかなり原作に忠実に描かれていると思えた。

原作の分量に対して、全10話という構成では足りなかったということなのか、登場人物のサイドストーリーとして原作にないエピソードが加えられたりもしている。その分、幾分テンポが悪い部分もある気もするけれど、よりわかりやすい展開になっているように感じた。

主人公のナン丸というキャラクターは、陰惨な殺人事件などが連発する内容とは相容れないようなちょっとのんびりしたキャラクターだ。ドラマ版で主人公を演じるのは『町田くんの世界』で町田くんを演じていた細田佳央太だ。町田くんのキャラもかなりいいヤツだったけれど、ナン丸というキャラの悠長さを細田佳央太がうまく醸し出していたと思う。

原作漫画でもかなりの異物感があったカササギというキャラクターだが、ドラマ版ではより一層“鳥”感を増してかなり異様なキャラになっている。このキャラを演じるのは山田孝之らしいのだが、顔がわかるのはごく一部のシーンだけにも関わらず、山田孝之本人が演じているらしい。

それから後半で起きる破壊活動では、原作とは異なり東京都庁が標的とされ、展望室の片方をまるごと消失させてしまうことになる。スペクタクルとしてはかなり攻めていたシーンだったんじゃないだろうか。

©2024 岩明均/小学館/東映

不思議な力の使い方

本作で登場する不思議な超能力、それが「手がとどく」能力と呼ばれるものだ。この能力を持つ者が念じると、空間に黒いシャボン玉のようなものが浮かぶことになる。本物のシャボン玉ならば触れてもシャボン玉が割れるだけということになるが、この黒い球体の場合はそうはならない。この物体に触れたものは、その容量と同じ分だけ消失してしまうことになるのだ。

劇中で起きる最初の殺人事件は、ある田舎の建設会社社長が頭を丸くえぐられたような形で殺されている。そして、えぐり取った部分はどこにも見当たらないわけで、それは一体どこに行ったのかということになる。

主人公の南丸洋二(細田佳央太)は、そののんびりとした性格からか、みんなに“ナン丸”と呼ばれている。実はナン丸もこの「手がとどく」能力の持ち主ということになる。ただ、まだそのきちんとした使い方を知らないため、彼の能力は紙にごく小さな穴を開ける程度のマジックにしか見えない。

ナン丸は大学の丸神教授に呼び出され、丸神ゼミの江見先生(木竜麻生)やゼミ生の多賀谷(濱田龍臣)や桜木(西畑澪花)と知り合うことになり、丸神の里というその超能力の発祥の地へとたどり着き、その能力の秘密を知ることになる。

そもそもこの能力は一体何なのか? 触れたものを消失させてしまう力。その能力を使えば、確かに人を殺すこともできる。ただ、ナン丸としてはそんなことを求めていない。就職活動中の身としては、自分にしかできない特殊な能力があるとするならば、それを有効に活用したいということで頭を悩ませることになるのだ。

ドラマ版では、亜紀(鳴海唯)というキャラが余計な行動をすることになるのだが、ナン丸は後輩の亜紀を助けようとして人をあやめそうになる。このエピソードは原作にはないもので、ナン丸自身がその能力に振り回されてしまうことが強調されているわけだが、本作ではほかにもこの能力に振り回されてしまうキャラが登場することになる。

その一人が「手がとどく」能力の持ち主である東丸高志(上杉柊平)であり、さらには丸神頼之(山田孝之)ということになる。特に頼之の能力は凄まじく、その能力は「核兵器並み」だとされることになる。つまりは本作における「手がとどく」力に振り回される人たちは、科学技術に振り回される人のメタファーでもあるということになるのだろう。

ナン丸の能力は最初はマジック程度のものだった。手を触れずに紙に穴を開けることができる不思議な能力。これだけでは何の役にも立たない力でしかない。しかし、それはやり方次第で一瞬にして人を殺すことのできる武器ともなっていく。特に頼之の能力はズバ抜けていて、人をまるごと消失させることも可能だし、都庁の展望室をまるごと消し去るほどの威力を持つことになる。

科学技術によって核兵器という力を得た人間は、その力に振り回されることになったし、今でも振り撒されているということになるだろう。本作のラスト近くでようやく顔を出すことになる丸神教授(三上博史)が語るように、たとえばクローン技術などの科学技術は様々なことを可能にするけれど、それでも一度「立ち止まろうじゃないか」というのが、本作が提示するメッセージのひとつということになるのだろう。

©2024 岩明均/小学館/東映

七夕のロマン?

ただ、本作はそれだけの話ではない。タイトルにもあるように、七夕の話とも言える。丸神の里では古来から七夕祭りが開催されていて、それが本作の重要な要素となっている。

七夕というのは中国から日本に伝わってきた祭りだ。いわゆる織姫と彦星の話で、1年に一度、7月7日の夜に天の川にカササギの羽でできた橋がかかり、ふたりは会うことができるとされる。

この話は、中国ではバレンタインデーみたいなロマンチックなものとして受け取られているようだ。台湾映画の『1秒先の彼女』では、バレンタインデーがなぜか2回あり、七夕の日もバレンタインデーとされていたのは、こうした事情によるということなのだろう。

1年に一度だけの逢瀬。確かにロマンチックな話と言える。本作では、この「会いたいのに会えない」という感覚が原作漫画よりも強調されていたように感じられた。

ナン丸は「ガッビーン」と運命的なものを感じることになった東丸幸子(藤野涼子)との間に、靄のような隔たりがあるのを感じることになる。江見先生は丸神教授に会いたくて堪らないけれど、教授は失踪したままほとんど最後まで姿を現すことがない。さらには頼之はもしかすると亡くなった幸子の母親・由紀子(朝比奈彩)のことを想っていたのかもしれない(幸子の母親はドラマ版だけに登場するキャラだ)。そして、丸神の里の人々が想い続けている“何か”があるということになるのだが……。

※ 以下、ネタバレもあり!

©2024 岩明均/小学館/東映

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ロマンも消し飛ぶ真相

以下はネタバレということになるが、丸神の里に伝わる能力には実は宇宙人らしき存在が関わっている。カササギのように見えた奇妙な存在は、宇宙人の血が混じっていたからということになるのだろう。そして、「手がとどく」能力を度々使っていると、その人はどんどん人間離れしてカササギのような姿になっていく。

ロマンチックな七夕の話が、実は宇宙人の植民地だったかもしれないという丸神教授の推論にロマンが一気に消し飛ぶことになる。それでも、この丸神教授の説く「七夕の由来」の話はなかなかおもしろい(ここで詳しく触れる余裕はないけれど)。

ちなみに本作のラスト近くで存在感を増していくのが頼之で、このドラマをおもしろいと感じるか否かは頼之に共感を抱けるかどうかということになるのかもしれない。尤も、頼之はカササギというか何かしらの異様なクリーチャーなわけで、そんなキャラに共感など無理という人も多いのかもしれないけれど……。

丸神教授の説によれば、丸神の里では1000年ほど前にカササギと呼ばれることになる“何者か”が現れ、異形の者である彼らは神のような存在となる。彼らは丸神の里のごく一部に「手がとどく」能力を授ける。そして、もうひとつの「窓をひらく」能力も里の人々にばらまかれる。「窓をひらく」能力というのは、丸神の里の多くの人たちが見る共通した怖い夢のようなものなのだという。

丸神の里は「手がとどく」能力によって外部からの干渉を避けることができ、土地を守り続けることも可能になった。「手がとどく」というのは窓の外に手がとどくということであり、「窓をひらく」能力はその窓の外を見る能力ということになる。

窓の外がどんな世界なのかはよくわからない。暗くてどこまでも堕ちていくような世界であるのだが、結局それは里の人が見る夢でしかないからだ。

カササギはその二つの能力によって、丸神の里の人々をそこに縛りつけることになった。里の人々は土地を守りつつカササギを待ち続けるわけだが、ある時期を境に彼らは現れなくなる。それでも里の人は延々とカササギを待ち続けることになる。

「会いたい人に会えない」という状況は、丸神の里の人々とカササギの関係でもあるということになる。そして、この状況はずっと続いている。頼之が願ったのは、そんな停滞状況の打破ということになる。「心の中のモヤモヤに決着をつける」という言葉は、そんな頼之の焦燥感を示しているのだろう。

©2024 岩明均/小学館/東映

窓の外には何が?

ここで頼之は考え方を変えたらしい。「手がとどく」能力は、触れるものを窓の外に放り出すような能力、ダストシューターみたいなものだった。しかし、窓の外を見た者はいないわけで、もしかするとそれは間違いなのかもしれない。そう頼之は考えたのだ。そして、窓の外というのは、何かしら別の世界への玄関かもしれないと捉え直すことになる。

頼之の能力なら、巨大な黒い球を生み出すことができるわけで、それは里の多くの人を一気に別世界へと運ぶ力になるかもしれないということにもなる。実際にそうなるかどうかはわからない。それでも頼之はそれに賭けたということになる。

これはもちろんかなり危なっかしい賭けということになるし、それは最終的にナン丸に否定されることになる。それでも幸子は頼之に連れていってくれることを望んだわけで、魅力的なものを含んでいることも確かなのだ。この気持ちをもっとわかりやすく言えば、「ここでなければどこでも」ということになるかもしれない。

これは何も丸神の里の人だけに限らない話だろう。日本は一時期好景気だったけれど、90年代以降それは見る影もないような状況が続いている。そういう状況にモヤモヤしたものを感じ鬱憤を溜め込んだ人は、「ここでなければどこでも」という気持ちを抱いても何の不思議もないということになる。頼之に共感する人というのは、そうした想いを共有している人ということになるだろう。

かつて原作漫画を読んだ時に感じたのは、そうした頼之への共感が強かった。しかし、ドラマ版の『七夕の国』の世界に触れ、同時に漫画版も読み直して感じたのは、カササギという存在によって土地に縛りつけられることになった里の人々のことだ。

原作者がどういう意図のもとにこれを描いたのかはわからない。プロフィールによれば岩明均は東京出身らしいので、自分の田舎の話などではないのだろう。以下は私の勝手な思い込みだが、一神教の神を信じる人たちのことを描いているようにも感じられた。

神から与えられたとされる土地に対する執着があるように見えるユダヤ教(神からそこへ「戻れ」と命じられたわけではないらしいけれど)とは、共通するものがあるようにも思える。それからイエスの再臨を2000年に渡って待ち続けているキリスト教に繋がる部分もあるだろう。そして、そうした流れの中では、テロ行為のような命を賭した無茶をやってしまう跳ねっ返りも出てくるということなのかもしれない。そんなことも感じたのだ。

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