『ザ・タワー』 フランス産不条理劇?

外国映画

監督・脚本は『ストーン・カウンシル』などのギョーム・ニクルー

原題は「La tour」。

今年4月に劇場公開され、今月になってソフト化された。

物語

様々な人種が住むフランスの団地。アシタンはある朝目覚めると、窓の外が“闇”で覆われていることに気が付く。その“闇”に物を投げ入れると物体は消滅し、体が触れるとその部分が鋭利な刃物で切られたように消えてなくなってしまう。テレビやラジオの電波は途切れ、携帯電話も圏外となっているが、なぜか電気と水道は使用可能だ。
原因不明の“闇”のせいで、建物の中に足止めされる団地の住民たち。外の世界と遮断され閉じ込められたままの彼らは、知り合いや人種ごとの小さなグループを形成していく。徐々に正気を失っていく彼らの間に争いごとが起こり始める中、彼らが選んだ“生きるため”の方法とは!?

(公式サイトより抜粋)

フランス産不条理劇?

冒頭にわずか2カットだけそのタワーの外の世界が描かれる。しかし、「La tour」というタイトルが出た後には、外のすべての世界が消えてしまったらしい。以降は最後までタワー内部だけで進行していくことになるのだ。

朝になっても外は真っ暗のままで、いつもは見える隣の団地もまったく見えない。だから電話も通じないし、テレビ放送もやっていない。外のすべてが消えてしまったわけで、それは当然とも言える。それでもなぜか電気と水道だけは辛うじて生き残っている。

この設定はかなり都合がいいけれど、外部から何も入ってこないわけで、そんな設定にでもしなければ中で生き残った人もあっという間に死んでしまうからかもしれない。

外はどうなっているのか? 缶を投げてみても、それが落ちる音もしないし、間違って手をタワーの外に出してしまうと、外に出た部分はキレイになくなってしまうらしい(それでもなぜか血は出ないという設定)。とにかくわかったことはタワーの外のすべてが消え、内部に生き残った人たちはそこにある限られた資源でやりくりするほかないということだ。

©2022 – Unite – Les films du Worso

ロックダウンされた団地

本作がごく狭い世界に閉じ込められる恐怖を描いているのは、コロナ禍からインスパイアされた作品だからのようだ。

原題は「La tour」だけど、英語版のタイトルは「Lockdown Tower」なのか、レンタルDVDのデータには「Lockdown Tower」と記載されている。これも新型コロナでロックダウンされた集合住宅のイメージがあるということなのだろう。

舞台はフランスだ。パリで開催された今回のオリンピックはあまり評判がよくなかった部分があるようだが、コロナ禍での政府の対応はどうだったのだろうか? まさかロックダウン中に政府から何の支援もないなんてことはなさそうだけれど、『ザ・タワー』は閉ざされた世界で外部と完全に断絶していたらという「もしも」の世界を描いていく。

外部の世界がなくなったら一番問題になるのは食糧問題ということになる。タワー内の人たちは、状況から鑑みて資源の争奪戦になっていくだろうということを予想し、自分を守るために仲間を集めてグループを形成していくことになる。

信頼できる仲間を作る時にその紐帯となる枠組みはいくつもあるのかもしれない。人種とか、宗教とか、出自などだ。それでもやはり最初にまとまるのは人種という枠組みということになるらしく、黒人は黒人たちと、白人は白人たちと、アラブ系はアラブ系でまとまっていくことになる。

『レ・ミゼラブル』などにも描かれていたように、フランスの団地においては普段から多かれ少なかれ人種ごとにグループ化することがあるということなのだろう。それでも本作で描かれるのは非常事態だけに、それは余計に先鋭化していくことになる。

※ 以下、ネタバレもあり!

©2022 – Unite – Les films du Worso

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人種間の闘争

グループを作り、自分たちで食糧などを確保する。ジャガイモをプランターで栽培したり、野菜を育ててみたりもするのだが、当然ながら全員が食いつなげるほどのものができるわけもない。そこで次に犠牲になるのは、ペットだった犬や猫ということらしい。住民たちはペットを繁殖させ、家畜のようにしようと考えたらしい。それでもやはり限界があるわけで、一体、この先はどうなっていくのか?

とにかく絶望的に暗い映画で、ほとんど希望がないまま展開していく。最初の混乱から始まり、その5カ月後、さらに2年後、続いて5年後と進んでいくのだが、最初の設定ありきといった感じで、時は経過してもあまり状況に変化はなく、重苦しいままダラダラ続いていく印象さえある。90分に満たない作品なのにも関わらず、妙に長ったらしいとも思えるような作品だった。

というのも、観ている側が共感を寄せられるような登場人物がいないからかもしれない。主人公と言えるようなキャラクターがいないのだ。多分、一応の主人公は最初に登場する黒人のアシタン(アンジェレ・マック)という女の子なのだろう。ただ、それほど存在感がある役柄というわけでもない。

アシタンは最初の騒動の中の事故で、弟を亡くすことになる。しかし、それ以降はグループ間の対立の話となっていき、黒人グループと白人グループの対立によって、アシタンの属する黒人グループの男たちは白人たちに殲滅させられることになってしまう。とはいっても、タワーの外に放り出してしまうだけですべては消えてしまうわけで、それほど凄惨な感じはしない。

結局、タワー全体をまとめる人もおらず、グループ間の対立で互いの首を絞めることになる。最後のほうでは女性たちが独自のグループを形成しているような場面もあるのだが、そうしたグループがなぜ形成されたのかはよくわからず終いで、アシタンが白人の子供を育てているということだけが希望といった感じで終わってしまう。

©2022 – Unite – Les films du Worso

身も蓋もないラスト

個人的に本作に興味を抱いたのは、前回取り上げた『七夕の国』とどこかで似ている部分があるように感じたからだ。『七夕の国』では「手がとどく」能力という不思議な力が出てくるのだが、これは別の世界に「手がとどく」ということだ。そして、その別世界に触れると、同じ容量を持っていかれてしまうことになる。このあたりは手首から先を持っていかれた本作のおばあさんの姿を彷彿とさせるところがある。

『七夕の国』では、その別世界の意味合いが次第に変わっていく。別世界は「あの世」を思わせるところもあり、その存在を知る人たちはそれを怖れることになる。「あの世」とは端的に言えば、“無”ということかもしれない。それでも、別世界を知る人はそこに別の意味合いを読み込んでいく。そこが『七夕の国』において共感すべきところだったような気がする。

それに対して『ザ・タワー』の場合は、シンプルにタワーの外の世界は“無”でしかない。それ以上の何の発展もないわけで、不条理劇としてはそれでいいのかもしれないけれど、何のオチもないわけで唖然としたラストだった。

ラスト近くになって「“無”が下から上がって来ている」という恐るべき事態も明らかになる。3階から下は“無”に飲み込まれたらしいのだ。次第に“無”が拡大しつつあり、何もかもが“無”に帰することを思わせつつ放り出されるわけで、かなりどんよりさせてくれる作品になっている。

ビッグバンによって宇宙が誕生したとするならば、ビッグクランチによって元に戻るとされる。その観点からすれば、宇宙の摂理としては正しいのかもしれないけれど、あまりに身も蓋もない感じもしたのだ。

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