脚本・監督は『哀れなるものたち』などのヨルゴス・ランティモス。
脚本には『ロブスター』などでもランティモスと組んでいるエフティミス・フィリップも参加している。
主演は『哀れなるものたち』などのエマ・ストーン。
原題は「Kinds of Kindness」で、「やさしさ(親切さ)の種類」といった意味合いになる。
物語
選択肢を取り上げられた中、自分の人生を取り戻そうと格闘する男、海難事故から帰還するも別人のようになった妻を恐れる警官、奇跡的な能力を持つ特別な人物を懸命に探す女……という3つの奇想天外な物語からなる、映画の可能性を更に押し広げる、ダークかつスタイリッシュでユーモラスな未だかつてない映像体験。
(公式サイトより抜粋)
前作の勢いをそのままに……
『哀れなるものたち』の日本公開が今年の1月だったわけで、まさかヨルゴス・ランティモスの次の作品がこんなに早くやってくるとは思ってもみなかった。『哀れなるものたち』がランティモス自身にとっても快作だったことは自覚していて、その余力を借りた形で『憐れみの3章』に突入したということだろうか。とにかくそんな勢いを感じさせる作品だった。
『哀れなるものたち』はアカデミー賞でも11部門にノミネートされ、エマ・ストーンの主演女優賞のほか衣装デザイン賞、美術賞、メイクアップ&ヘアスタイリング賞の4部門を獲得する大成功だった。同じ年のアカデミー賞の作品賞のノミネート作品は『マエストロ: その音楽と愛と』以外は全部観たけれど、個人的には断トツで一番好きなのが『哀れなるものたち』だったので、本作もとても楽しみにしていた。
ところが『憐れみの3章』は、かなり変な作品だった。とは言うものの、もしかするとランティモスらしさを取り戻したということなのかもしれないとも思えた。
そもそもランティモスは出世作の『籠の中の乙女』から、『アルプス』(日本未公開作品)、『ロブスター』、『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』と、ずっと脚本家のエフティミス・フィリップと組んでやってきていた。
ちなみにエフティミス・フィリップの脚本作品には『PITY ある不幸な男』(監督はバビス・マクリディス)というものもあった。『PITY』は、妻が昏睡状態にある弁護士が主人公だ。意識がない妻にやさしく語りかける堅物の主人公は、実は自分が“悲劇の主人公”であることに快感を抱いているということがわかってくる。ところが昏睡状態の妻が目を覚ましてしまってかえって困惑するという、なかなか悪趣味な作品だった。
このエフティミス・フィリップとランティモスが一緒に脚本を書いてきた作品が、いわゆるランティモスらしさを生み出してきていたのだ。たとえば子供たちを洗脳して家に閉じ込めたままにしている『籠の中の乙女』や、独身者が動物に変えられてしまうという『ロブスター』みたいな、独特な設定がランティモスらしさだったとも言えるかもしれない。
その後ランティモスは、エマ・ストーンとのコンビで『女王陛下のお気に入り』と『哀れなるものたち』の2作品を製作する(どちらもトニー・マクナマラという脚本家が関わっている)。この2作品はどちらもアカデミー賞の作品賞にノミネートされるほど評価されたわけだけれど、ランティモスがその成功を手にして自分のやりたい作品に戻ってきたのが『憐れみの3章』ということなのだろう。
『憐れみの3章』は昔なじみの脚本家のエフティミス・フィリップと再び一緒に脚本を書き、『女王陛下のお気に入り』以来連続して主演を務めているエマ・ストーンも加わり、ランティモスお気に入りの布陣で臨んでいる(音楽も『哀れなるものたち』でも独特な音楽を聴かせてくれたジャースキン・フェンドリックス)。
R.M.F.とは何か?
本作はオムニバス作品だ。邦題が「憐れみの3章」となっているように、3章に分かれている。第1章は「R.M.F. の死」、第2章は「R.M.F. は飛ぶ」、第3章は「R.M.F. サンドイッチを食べる」と題されている。
3つの話の出演陣はほぼ共通している。エマ・ストーンとジェシー・プレモンスが主人公という形で、そのほかウィレム・デフォーやマーガレット・クアリー、ホン・チャウ、ジョー・アルウィンなどが脇役として登場する。役者陣は、それぞれの話で別の役柄を演じていくことになるというわけだ。
第1章の主演はジェシー・プレモンスで、彼はなぜか上司であるウィレム・デフォーに支配されている。ジェシーはすべて彼の言いなりで、彼から逃れることができなくなってしまっている(エマ・ストーンはジェシーの次にウィレム・デフォーに支配される人物を演じている)。それでもジェシーは「人を殺せ」と命令されて思い留まることになるのだが、いざ上司の支配から逃れてみると、自分だけでは何もできないことを思い知ることになる。
第2章では、ジェシー・プレモンスとエマ・ストーンは夫婦という設定だ。ところがエマは海で遭難し、しばらく無人島で暮らした後に発見されて、家に戻ってくることになる。奥さんと再会したジェシーは、戻ってきたエマが彼女の偽物に思えてしまう(エマは嫌いだったチョコを爆喰いしたりする)。ジェシーは疑心暗鬼に駆られ、エマにとんでもない無理難題を要求することになるのだが……。
第3章は新興宗教にハマってしまったエマの話だ。ジェシーはその相棒みたいな役割だ。エマはジェシーと一緒に人を生き返らせる能力のある人物を探している。エマは夢のお告げに従ってその人物を見つけようとし、実際にその人物は見つかることになるのだが……。
悪い冗談なの?
3つの話に関連はない。共通したテーマを見つけることも厄介かもしれない。支配と被支配が描かれているとも言われているようだし、第1章はまさにそんな話なのだけれど、それで作品全体がうまく説明できるのかどうかはよくわからない。とにかく説明不能な変な話が3話続くことになる。それでもこの感覚は、『籠の中の乙女』から『聖なる鹿殺し』に到るランティモス作品に共通しているものと言えるだろう。
第2章は『SF/ボディ・スナッチャー』みたいな話で、外見は同じだが中身は別物になっているということなのかもしれない。しかし、結局、何が偽物に化けていたのかはわからないし、ラストに登場したのが本物なのかもよくわからないまま放り出されることになる。観た側としてもどんなふうに解釈すればいいのか困惑させられることになる。
ちなみにR.M.F.というのは、第1章では殺されることになる人物のイニシャルとされている。第2章では、私は気がつかなかったけれど、ヘリコプターの操縦士として顔を出していたらしい。そして、第3章ではエマが見つけた人物によって蘇ることになる人物がR.M.F.ということになる(第1章で殺されたR.M.F.と同じキャラにも見える)。
R.M.F.は一度死んで、空を飛んで、最後に生き返ってサンドイッチを食べることになるのだが、これは3つの話を無理やり結びつけただけであまり意味はなさそうだ。
それぞれの話はかなり大真面目に演じられていて、ほとんど笑えることもないのだが(第2章のスワッピングの部分を除くと)、それぞれのラストでは「これは悪い冗談ですよ」とでも言うかのように妙なオチがついているようにも見える。
第1章では、マーガレット・クアリーが電子ピアノを弾きながらビージーズのヘタな歌で締める。第2章では、犬たちが人間のように暮らしている様子が描かれる。これはエマがいた無人島が犬が支配していた島だったことからだろう。ここでは犬たちがなぜか正常位で交尾をするという変な場面まである。そして第3章では、意味もなくエマ・ストーンが踊り出して終わることになる。
何だかよくわからないけれど、ふざけているということなのだろう。観ている側としては唖然とさせられることになるのだが、それをおもしろがっている風ですらある。そんなところもランティモスらしいのかもしれず、ランティモスが本来狙っていたところへと戻ってきたという印象でもあったのだ。
本作はジェシー・プレモンスがとてもよかった。この人はちょっと前に太っていた時は、どこかフィリップ・シーモア・ホフマンを思わせた(『ザ・マスター』ではフィリップ・シーモア・ホフマンの息子役だったらしい。今はちょっと痩せたようで、第1章ではウィレム・デフォーに「もっと太れ」と言われていた。第2章のジェシー・プレモンスは横顔なんかはマット・デイモンそっくりでビックリするくらいだった。第3章では髪を丸坊主にして登場し、いかにもカルト集団にハマる青年っぽい雰囲気を演出している。
エマ・ストーンは最後のノリノリの踊りもそうだけれど、ランティモス作品を楽しんでいるのだろう。第2章の自分の指を切り落として失神するシーンなど、特におもしろがっているっぽい。
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