『KIDDO キドー』 感情が動く瞬間を

外国映画

監督はザラ・ドヴィンガー。オランダ出身の女性で、本作は長編第1作ということ。

本作はベルリン国際映画祭にも出品された。

原題は「Kiddo」。

物語

ママがやって来る!児童養護施設で暮らす11歳の少女ルーのもとに、離れ離れだった母親のカリーナから突然連絡が入る。自称ハリウッドスターのカリーナは、再会を喜ぶルーを勝手に施設から連れ出し、「ポーランドのおばあちゃんのところへ行く」と告げる。カリーナにはルーとずっと一緒にいるための、ある計画があったのだ。「人生はゼロか100かよ、お嬢ちゃん」。ルーは破天荒な言動を見せるカリーナに戸惑いながらも、母親と一緒にいたいという思いでついていくのだが…。

(公式サイトより抜粋)

母と娘の逃避行

本作のカリーナ(フリーダ・バーンハード)を形容する言葉として、公式サイトのストーリー欄には「破天荒な」という言葉が使われている。

「破天荒」という言葉の正式な意味は、「今までだれもしなかったような事をすること。前代未聞。」ということになる。ただ、この「破天荒」という言葉は、一般的にはよく誤用されるようで、その場合、「豪快な」とか「型破りな」といったイメージで使われる。

多分、私自身もそういった意味で、この形容詞を使っていた気もするのだけれど、本作のカリーナは前代未聞の女性というわけではないわけで、誤用された意味で使われているのだろう。確かにカリーナは「型破りな」ところがあるし、劇中に登場する少年が言うように「イカれた」女性に見えなくもない。

というよりも、カリーナは意識してそんなふうに振舞っているところもあるのかもしれない。彼女は、狂っているのはスターの証だとして、マリリン・モンローとジュディ・ガーランドとブリトニー・スピアーズの名前を挙げている。そんなスターになりたいという憧れがあるのだろう。それが彼女自身がハリウッドで働いているという嘘につながってくる。

そして、本作においてカリーナがその娘のルー(ローザ・ファン・レーウェン)と一緒にやる行動にも、先行例がある。それは本人も何度も言及しているように「ボニーとクライド」ということになる。カリーナは自分の娘ルーとその真似事をしたいと考えているようなのだ。

本物の「ボニーとクライド」は『俺たちに明日はない』などで描かれたように、警官や一般市民も殺している悪党なのだが、その真似事をすることになるカリーナとルーの行動はとてもかわいらしいものだ。せいぜいホテル内で子どもっぽいいたずらをしてみたりとか、食い逃げをするくらいが関の山だからだ。

ただ、劇中の少年も指摘するように「ボニーとクライド」は最後に死ぬことになるわけで、カリーナは娘のルーを連れて「一体、何をしたいのか?」ということにもなるのだろう。

© 2023 STUDIO RUBA

「かわいい」と「カッコいい」

本作は「かわいい」と「カッコいい」が同居しているようなところがある。「かわいい」はルーの感覚で、「カッコいい」は母親カリーナの感覚と言ってもいいのかもしれない。

本作ではルーの「かわいい」という感覚を示すためか、妙にかわいらしい効果音が使われている。一方でカリーナは「カッコいい」ものに憧れているように見える。彼女たちのやっていることは女性二人の逃避行なわけで、『テルマ&ルイーズ』と言ったほうがいいんじゃないかとも思うわけだけれど(ヒッチハイクのシーンなど『テルマ&ルイーズ』の二人に見えなくもない)、カリーナはどうしても「ボニーとクライド」でなければダメと考えているのだ。

カリーナのファッションは60年代とか70年代なんかを思わせる古臭いもので、本作がいつの時代を背景にしているのか混乱させるところがある。最初にカリーナが乗ってきた愛車は、1972年のシボレーインパラという車らしい。走る鉄くずといった趣きすらある愛車は、途中で役立たずになり、燃え上がることになる。

それでも本作が舞台としているのは実は現代なので、劇中にはスマホなんかも登場する。カリーナはいい映画はすべてモノクロだと信じているように、古臭い時代に対しての憧れがあるのだろう。それが本作の『俺たちに明日はない』のようなアメリカン・ニューシネマ的なものに対するオマージュとなって表現されている。その感覚が「カッコいい」というイメージなのだろう。

そんなわけで本作は「かわいい」ものに対する子どもっぽい感覚と、「カッコいい」スタイルが同居したような不思議な感覚の作品になっているのだ。

© 2023 STUDIO RUBA

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人生はゼロか100か

『KIDDO キドー』は、カリーナという母親に翻弄されるルーが主人公だ。ルーは児童養護施設に預けられている。カリーナはハリウッドで仕事をするということで、娘のルーをそこに預けたらしい。

施設に預けられることになったルーは、そこでごく普通の生活を学び、ほかの子どもたちと楽しく暮らしている。そこには規則正しい生活があり、真っ当に生きていくための日々の習慣が備わることになる。朝早く起き、きちんと歯を磨く。そうした当たり前のきちんとした生活に慣れているルーからすると、ママであるカリーナとの久しぶりの再会は戸惑うことばかりだ。

カリーナは娘のルーからしても突拍子のないことを仕出かす女性だ。毎日一度は思い切り叫ばなければとか、ちょっと普通ではないことを仕出かし、ルーを驚かせる。ルーのことを施設に断りもなく、半ば誘拐するような形で旅へと連れ出してしまう最初の行動からして、真っ当な大人のすることではないだろう。

カリーナは「人生はゼロか100か」だと決めつけてみせる。その台詞の最後の「KIDDO(お嬢ちゃん)」というキメ台詞がカッコよくて、ルーはこっそり真似してみたりもするけれど、この「ゼロか100か」という言葉は最後に否定されることになる。

この言葉が一体どんな意味で使われているかと言えば、カリーナにとっては中途半端はカッコ悪いということなのだろう。母親であれば絶対的に100パーセント母親でなければならないし、そうでなければ母親なんていないほうがいい。そんな意味合いが込められているのだ。カリーナは自分の母親との関係も含めて、そんなことを感じてきたということらしい。だから彼女自身もルーの母親として、100パーセントの母親になれないならば、いらない母親になるということになる。

そして、カリーナとしてはようやく「準備が整った」からこそ、ルーを迎えにやってきたのだ。今までは施設に預けていたけれど、これからはずっと一緒にいるつもりで、100パーセント母親になるつもりでルーを迎えにきたのだ。

© 2023 STUDIO RUBA

感情が動く瞬間を

二人は施設のあるオランダから、ドイツを横断して、故郷のポーランドへ向かうことになる。本作はロードムービーなのだ。ポーランドにはルーのおばあちゃんの家があり、大金が隠してあるのだという。カリーナはその大金でルーと好きなことをする計画なのだ。ただ、旅の途中で、やはりカリーナは母親には向いていないことを思い知ることになる。

実際に母親になる「準備が整う」ことなんてあるのだろうか? 思いがけず母になる人も多いだろうし、母親の側が準備をするというよりも、子どもの存在そのものが女性を母にしていくところもあるのかもしれない。本作を観ているとそんなことを感じさせなくもない。

カリーナは自分の思う「カッコいい」母親像に囚われ過ぎていたのかもしれない。ところがそんなカリーナをルーの言葉が救うことになる。カリーナの「ゼロか100か」の理論はルーに否定され、「ちょっとだけ」の中途半端な母親でいることが肯定されることになる。母親のほうが、子どもの側に教えられる形になっているのだ。

本作で感情が動く瞬間は、毎回の如く、横移動のカメラワークとして表現されていて、そこがとても心地よかった。最初にルーの感情が動くのは、ママがやってくると知らされた冒頭の場面だ。ルーは施設のほかの子どもの手前、気まずかったのか、その場では嬉しい素振りを見せないのだが、それから外に飛び出していくと、その喜びを爆発させるかようのように歩き出していく。

カメラはそのルーの姿を横から捉えていくことになる。この冒頭場面のルーが歩いていく住宅地の向こう側に広がる空の青さがとても印象深くて、最初から映画の世界に引き込まれることになった。ほかにもカリーナが感じた失望や、ルーの怒りもうまく横移動のシーンとして表現されていた。感情の動きを言葉で説明するのではなく、カメラの動きでそれを見せているところが素晴らしかったと思う。

カリーナには本物になりたいけれど成り切れない悲哀みたいなものを感じなくもなかったし、困ったママを愛しつつも意外に真っ当でアンヴィバレントな思いに揺れるルーの健気な姿も愛おしかった。

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