監督・脚本は『Blood of My Blood』のクリストファー・ザラ。
主演は『コーダ あいのうた』のエウヘニオ・デルベス。
サンダンス映画祭では映画祭観客賞(フェスティバル・ファイバリット賞)受賞した。
物語
麻薬と殺人が日常と化した国境近くの小学校。子供たちは常に犯罪と隣り合わせの環境で育ち、教育設備は不足し、意欲のない教員ばかりで、学力は国内最底辺。しかし、新任教師のフアレスが赴任し、そのユニークで型破りな授業で、子供たちは探求する喜びを知り、クラス全体の成績は飛躍的に上昇。そのうち10人は全国上位0.1%のトップクラスに食い込んだ!
(公式サイトより抜粋)
今年一番の泣かせる映画
型破りな先生が登場する感動作。そんな謳い文句を見ても、正直、あまり食指が動かない。そもそも私自身は『金八先生』という有名なドラマすら見たことがない。先生という存在自体がどうにも説教臭いものに思えて苦手なのかもしれない。
そんな意味で本作は全然期待してはいなかったのだけれど、なぜかこの主人公の存在は感動的なものがあった。とにかく今年一番の泣かせる映画だったんじゃないかと思う。
邦題は「型破りな教室」となっているけれど、原題は「Radical」というものだ。この言葉は「過激な」といった意味合いになる。『型破りな教室』のフアレス先生(エウヘニオ・デルベス)は、確かにかなり過激で型破りなやり方をする先生なのだ。
フアレス先生は最初の授業で何の説明もなしに教室を海に見立てて、奇妙な問いを投げかける。フアレス先生の突飛な行動には生徒たちもビックリで、「幼稚園みたいだ」と呆れる者もいるくらいなのだが、クイズのようでもあり謎かけのようでもある授業に次第に生徒たちも引き込まれていく。
われわれは沈没しそうな大きな船に乗っている。乗員は〇人で、救命ボートは〇艘しかない。ひとつのボートに乗れるのは〇人で、だとするとどんなふうに乗員を振り分けるべきか? もしも乗れない人がいたとすれば、どうやって乗る人を決めるべきか?
先生はそんな問いを次々と投げかけることになるのだ。この問いの中にはいくつもの学びの機会が埋まっている。まずは算数の問題もあるだろうし、倫理的な問題もある。さらには疑問はなぜボートは浮くのかといった方向へも展開し、物理学の問題ともなっていくのだ。
メキシコという物騒な場所
ちなみにフアレス先生が赴任してきた学校は、メキシコでも一番物騒な地域とも言われる国境近くの場所だ。ここではあちこちで銃声が聞こえてくるし、道端で人が殺されていても子どもたちも当たり前の情景としてチラ見するくらいで驚くこともないような状況だ。
昨今のメキシコ映画、たとえば『母の聖戦』や『息子の面影』などでも明らかなように、とにかく世界で一番物騒なのがメキシコだと言われてもおかしくないような状態になっているのだ。
そんな場所の小学校が舞台となるわけで、子どもたちの日常生活も日本のそれとはかけ離れたものがある。みんながそれぞれに厄介事を抱えているのだ。だからこそ学力も最底辺になってしまうし、どこか諦めにも似た空気が漂っている。ところがフアレス先生が来たことで、クラスは大きく変わっていくことになる。
成績優秀だが積極性に欠けるとされるパロマ(ジェニファー・トレホ)は、家がゴミ山の傍にある。彼女の父親はそこで金になるものを拾い集めて暮らしている。彼女はそんな中でも宇宙飛行士になる夢を見ているのだが、父親はそれを「叶わぬ夢」としか思っていない。だからフアレス先生のやっていることは、夢を見させて余計な失望を味わわせることになると感じているのだ。
ルペ(ミア・フェルナンダ・ソリス)は、フアレス先生の授業から哲学というものに興味を持つ。大学の図書館で借りてきた哲学の本を読み耽るようになるルペなのだが、彼女には幼い妹や弟がいる。その世話をするのは仕事に行かなければならない母親ではなく、ルペに回ってくることになる。
ニコ(ダニーロ・グアルディオラ)の兄はギャングの一員で、ニコ自身も学校よりもギャングに仲間入りすることを心待ちにしている。兄としては弟を巻き込みたくはないという気持ちもあるけれど、メキシコのその街で生きていくにはそういう仲間が必要な時もあるようだ。しかしニコはフアレス先生の教えによって、学ぶことのおもしろさを知ることになり、少しずつ変わっていくことになる。
すべて忘れた後に残るもの
フアレス先生のやり方は変わっている。学習指導要領など無視して、子どもたちの興味というものを引き出そうとする。そして、彼は自分では一切答えを教えることはない。というのも子どもたちはすでに学ぶ力を持っていて、それを自分が援助してやれば、自分たちで解答にたどり着けると考えているからだ。
フアレス先生はどこからこの教育方法を学んだのだろうか。劇中では動画サイトで似たような教育方法を展開している人もいたけれど、私はソクラテスのことを思い出した。
ソクラテスはいわゆる「無知の自覚」ということを説いた哲学者だ(昔よく聞いた「無知の知」という言い方はおかしいらしい)。ソクラテスは相手との問答によって、その相手が正しい答えにたどり着くことを援助することになる。これはソクラテスの「産婆術」と呼ばれるものだ。フアレス先生がやっていることもこれとそっくりだろう。
しかし、このやり方はあまり一般的ではないのかもしれない。だからなかなか理解されにくい部分もある(ソクラテスもそうだったように)。そして、フアレス先生自身も悩みながらやっている部分もあるようだ。
彼は前の学校で問題を起こしたらしい。教師という仕事がよくわからなくなったからだ。フアレス先生が新しい学校にやってきたのは、誰も来たがらないような学校で新しい試みをしてみたいと思ったかららしい。
彼のやり方は子どもの可能性を信じるというものだ。可能性を潰してしまうものは、自分以外にはいないとも語る。自らダメだと決めてしまっては、それ以上何もできないということだろう。そんな彼のやり方によって子どもたちは自分の可能性を信じられるようになるし、自分で学ぶ力を獲得することになる。だから詰め込み式の試験勉強といったものを特別にしなくても、学ぶ力がついているために学力も自然と上がっていくということなのだろう。
本作の最後はアインシュタインの言葉が飾っていたはずだ。その言葉そのものは忘れてしまったけれど、アインシュタインはそれとは別に教育についてこんな言葉を残しているらしい。「教育とは学校で学んだことをすべて忘れた後に残るものである」というものだ。
フアレス先生がやろうとしていた教育もそういう種類のものだろう。子どもたちは学ぶことの楽しさを知り、自分の可能性というものを信じられるようになったのだから。
メキシコの現実と希望の光
本作は事実を元にしているとのことで、ラストではこのクラスの成績が飛躍的に伸びたことがテロップで知らされることになる。さらに全国で一位を獲得した実在のパロマは、天才少女として有名になったらしい。その意味ではサクセスストーリーではあるわけだけれど、同時にメキシコの現実の厳しさも示されている。
哲学に興味を抱いたルペは、学業よりも弟たちの世話を優先するしかなかったようだ。それでも彼女はフアレス先生が最初に出した問いに対する自分なりの答えを導き出していた。それは全員が救命ボートに乗れる人数しか、船のチケットを販売しないという方法だ。当たり前のことかもしれないけれど、倫理的にはそういう解答が導き出されるというわけだ。
それからニコを襲った悲劇がある。これに関しては、フアレス先生の失敗と言える部分もあるのかもしれない。彼自身も自分のやり方が間違いかもしれないと葛藤していたわけだから……。しかしながら、その決断がどう転がるかは、それこそ「神のみぞ知る」というヤツで、フアレス先生を責めることはできない気もする。
フアレス先生は生徒たちに「間違ってもいいんだ」ということを熱心に説いていた。失敗から学ぶことのほうが大切だからという意味だろう。フアレス先生もさすがにニコの件は堪えたようだが、彼には校長(ダニエル・ハダッド)など味方になってくれる人もいる。もう一度失敗から学び直して、さらに良いやり方を見つけ出すことになるんじゃないだろうか。
題材としては目新しいものはないし、映画の手法としても驚くべきものもないだろう。それでもそんなこと以上に、なぜか素直にフアレス先生の存在に感動してしまった。こういう先生がいることは子どもたちにとってかけがえのない奇跡のようなものなんじゃないだろうか。生徒を演じた子どもたちの目が活き活きとしてくるのがスクリーンを通しても伝わってきて、より一層感動を後押ししている気もした。
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