監督は『許されざる者』などのクリント・イーストウッド。
主演は『レンフィールド』のニコラス・ホルト。
原題は「Juror #2 」。
なぜか劇場公開はされず配信独占だったものの、4月23日にソフトが発売された。
物語
家族思いの男、ジャスティン・ケンプ(ニコラス・ホルト)は、世間の耳目を集める殺人事件の審理の陪審員に選ばれ、倫理的葛藤に苛まれる。彼の決断しだいで、殺人罪に問われている被告の裁判の判決を、有罪に導くこともできれば、無罪にすることもできるのだ。
(公式サイトより抜粋)
陪審員制度とは?
劇中では、陪審員裁判を受ける権利というものが、「民主主義の礎」だとされている。理念として、犯罪者というものの裁きも、その社会の一員が判断すべきということなのだろう。
日本でも似たような制度とも言える「裁判員制度」というものが一部で取り入れられた。法務省のサイトには「裁判員制度の意義」という文章が掲載されている。そこにはたとえば、「国民の感覚が反映できる」とか「専門家でない人の見方が反映される」などの点が挙げられている。
「裁判員制度の意義」という文章が正しいとすれば、「裁判員制度」は刑事事件の一部の裁判に適用されるだけだけれど、それ以外の普通の裁判は、国民の感覚が反映されず、専門家だけの見方で決まってしまうことも多いということなのだろう。
「裁判員制度」というものが取り入れられることで、われわれ一般市民の感覚が反映されることになり、そうすることでその社会に対する紐帯といったものが深まるということもあるのかもしれない。だからこそ陪審員裁判も「民主主義の礎」とされているということなのだろう。

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レアケース?
陪審員がどんなふうに選ばれるのかは特段説明はなかったけれど、市民の中から無作為で選ばれるということなのだろう。舞台となっているのはジョージア州のある街ということだが、それほど大きな街ではないのか、被告人とされる男と陪審員は意外にも近しいところにいる。大都会なら確率的にそんなことは起きないのかもしれないけれど、本作のケースの場合は、裁判となる事件の当事者が陪審員の中に紛れ込んでいたということになる。かなりのレアケースということだろう。
検察側が被告人の犯罪を物語化すると以下のようになる。被告人ジェームズ・サイス(ガブリエル・バッソ)は、恋人であるケンダル・カーターとバーでケンカ別れした後、彼女のことを追い、何らかの方法で殺害し、橋の下に遺棄した。
サイスという男は評判のよくない男で、バーでの二人のケンカもよくある話だったらしい。だから検察側の物語を疑問に思う人はほとんどいなかった。
ただ、『陪審員2番』の主人公であるジャスティン(ニコラス・ホルト)だけはそうではなかったのだ。というのも、彼は裁判の過程で事件のあらましを聞くことになると、同じ日に彼の身に起こったことを想起することになったからだ。
その日、ジャスティンは被告人であるサイスと同じバーにいた。ジャスティンは被告人のことには気づいていなかったけれど、どしゃ降りの雨の中を家に帰る途中で何かにぶつかり、車を修理することになったのだ。その時はシカにぶつかったものと、さほど気にも留めなかったジャスティンだが、それがシカではなかったとしたら……。そう考えるとジャスティンは途端に吐き気を催すことになるのだ。

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それぞれの都合?
本作の陪審員のやり取りを観ていると『12人の怒れる男』を想起させる。『12人の怒れる男』も陪審員のたった一人だけが、被告人の有罪に異議を唱えることになった。
本作もそれは同様だ。“陪審員2番”ことジャスティンだけが、サイスが有罪ということに異議を唱えることになるのだ(ほかにもひとり疑問を感じている男がいるのだが)。ただ、ジャスティンがそうしたのは、「もしかすると自分が真犯人かもしれない」という罪悪感からということになる。サイスがこのまま有罪になれば、自分は「お咎めなし」ということになるわけだけれど、それではあまりに後ろめたいということなのだろう。
先ほどもこの裁判は「レアケース」と記したけれど、被告人を有罪か否かを判断する当事者に、その事件の真犯人が入り込んでいるわけで、これは真っ当な判断ができるわけがないということになる。しかしながら、これはジャスティンだけの話ではないのかもしれない。
陪審員の面々はそれぞれに事情があり、それによって見方は当然ながら偏ることになる。3人の子どもを抱えたおばさんは、一刻を早く子どもたちのところに帰るためにサイスという男を有罪にしたいと考える。自分の弟を麻薬組織に殺されたと考えている男は、サイスがかつてそのグループにいたということだけで、サイスを決して許すべきではないと頑なになっている。
ここには「それぞれの正義」というものがあるとすら言えるのかもしれない。「真実は常にひとつ」ということもあるのかもしれないけれど、それを完全に知ることができるのは神様だけということになる。真犯人はジャスティンの可能性もあるけれど、そのジャスティンすら、裁判が始まるまでは、自分がそんな事件に関わっているとは思ってもみなかったのだ。
だからこそ陪審員という制度があるのだろうか。神様にはなれない人間でも、理性を持って議論を尽くせば正しい答えにたどり着くことができる。ただ、これは理想論でしかないのだろう。弁護士の男も陪審員の制度を「ないよりはマシ」と揶揄していたけれど、どうしても問題は生じることになる。
元刑事だった男(J・K・シモンズ)は、事件をひき逃げだと理解していた。これは恐らく正しい見方だが、独自の捜査をしてはならないというルールを破ったために、陪審員から外されることになってしまう。彼は真っ当な答えを見出していたけれど、それも彼の正義感というよりは、昔の仕事に戻れるのが楽しいという、別の欲望に促されている気がしないでもないのだ。

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正義の脆さ
『12人の怒れる男』の場合は、ヘンリー・フォンダ演じる主人公がひとりで理を尽くし、最終的には正しい答えにたどり着いたように見えた。彼がそんなことをしたのは、彼が正義というものに促されたからなのだろう。
それに対して本作の場合、陪審員のみんなはそれぞれの都合で、それぞれが正義と思うものを主張しているように思える。この場合の正義というのは、もはや正義とは言えないものになっている。
その意味で、本作は『12人の怒れる男』という名作に対し、疑問を呈するものとも言える。ヘンリー・フォンダのような「全き正義漢が本当にいるのだろうか?」という疑問だ。
ジャスティンは最初は被告人の有罪に反対する立場だったけれど、一部の陪審員がサイスを無罪にすることを頑なに拒んでいることを知ると、最終的には立場を変えてしまう。
評決不能ということになると、裁判は陪審員を替えても続けられ、ジャスティンの立場が危うくなるからだ。彼には身重の妻がいて、彼女はジャスティンを必要としていたからだ。ジャスティンは最終的には正しいことよりも、家族にとって最善なことを選らんだということになる。
正義というものはそんなに危ういものということなのだろう。検察側のフェイス・キルブルー(トニ・コレット)はもちろん最初の志としては、正義のために法律というものを学んだのだろう。その彼女は検察のトップの地位まで登り詰めることになる。ただ、彼女のその姿は、かつて同級生でもあった弁護士からすると、政治家のように見えている。つまりは最初の志はどこかで有耶無耶になっていたということなのだろう。
検察のトップということは、劇中に何度も登場する天秤を持つ女神テミスのような役割とも言えるかもしれない。女神テミスというのは、ギリシア神話の法・掟の女神のことだ。
そんなふうに法を司るはずの彼女自身が、どこかで正義というものを見失ってしまっていたということになる。一応、ラストで改心することになるけれど、それほど正義というものは脆いということを示しているということなのだろう。
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