『星の時』 客観視しないということ

外国映画

原作は、「ブラジルのヴァージニア・ウルフ」と称されるクラリッセ・リスペクトルの同名小説。

監督・脚本はスザーナ・アマラウ。ブラジル映画における女性監督の先駆者と言われる人らしい。

1986年の第36回ベルリン国際映画祭では、銀熊賞(女優賞)を受賞した。

原題は「A Hora da Estrela」。

物語

ブラジル北東部の貧しい地からサンパウロにやってきたマカベーアは、身寄りもなく、読み書きもままならず、世間知らず。安月給で暮らし、3人の女たちと粗末な下宿を共有している。自身の貧困や境遇に無自覚で、恋にあこがれ、映画スターを夢見る彼女は、ある日占い師から「あなたの人生は変わる」と告げられる。だが、その「運命の瞬間」は思いがけない形で訪れる……。

(公式サイトより抜粋)

1985年のブラジル映画

『星の時』はブラジルで1985年に製作されたもので、ブラジリア映画祭では主要6部門を受賞したのだとか。ベルリン国際映画祭でも、銀熊賞(女優賞)を獲得したものの、当時の日本で劇場公開されることはなかった(映画祭などでの限定的な公開を除いて)。「知る人ぞ知る」という作品だったのかもしれないけれど、今回はそんなカルト的な作品が4K修正版として公開されることになった。

たとえば1985年のハリウッド映画では『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が思い浮かぶ。この時代のアメリカは登り調子で、『BTTF』の劇中でも豊かな生活を享受していることが窺えるわけだが、同じ85年でも南米のブラジルはかなり様子が異なる。

主人公のマカベーアが暮らす家は、粗末な下宿だ。1部屋に4人の女性が暮らしていて、トイレやシャワーも共同で、テレビすらない。女性たちは見たいドラマが始まると、隣の家のテレビを覗き見しているという状況なのだ。

マカベーアという女の子は、恵まれた環境に生まれたとは言えないだろう。それでもマカベーアはそれを気にしていない。というよりも、世間のことを知らな過ぎて、自分の置かれた環境について理解していないのだ。

『星の時』の魅力は、何と言ってもマカベーアを演じたマルセリア・カルタッショにあるのだろう。演じているというよりはほとんどマルセリア・カルタッショのままだったのかもしれない。若いけれど特段美しいというわけではない。夜中に起き出すとオマル(というか洗面器みたいなもの)にオシッコをし、残っていたチキンにかぶりつく。そんな自然体で純粋無垢とも言えるマカベーアという女の子をマルセリア・カルタッショが見事に体現しているのだ。

映画『星の時』 8/21(金)より公開中

タイプの打てないタイピスト

マカベーアはタイピストとして雇われたらしいのだけれど、仕事はまったくできない。タイピストなのにもかかわらず、タイプのスピードはやたらと遅くて、打ち間違いばかりなのだ。しかも、いつもホットドッグを食べたままの手で書類を触るものだから、書類はシミだらけになってしまう。社長はすぐにクビにしろと言うものの、人のいい上司が彼女を庇ってくれるものだから何とか置いてもらっているという状況だ。

マカベーアは両親とは死に別れ、意地悪なおばさんに育てられたらしい。学もないし、天与の美貌もない。いつも鼻水を拭っているからか、鼻の頭が赤くなっていてちょっとみっともない。

本作の冒頭には職場に飼われているネコが登場する。もしかするとマカベーアはこのネコみたいなものなのかもしれない。ネコは床に落ちている何かを食べている。けれども、ネコとしては自分のことを不幸などとは思わないだろう。それと同じで、マカベーアという女の子も与えられた状況に自足しているということなのだ。

初めての彼氏とも言えるオリンピコ(ホセ・デュモント)という男も独特だ。髪をグリースで撫でつけている様子も変なのだけれど、顔はちょっとドミニク・ピノンを思わせなくもない。このオリンピコはなかなか酷い男なのだけれど、マカベーアは自分が酷い扱いを受けているということにも気づかないのだ。

マカベーアには学もないと言ったけれど、時にドキッとさせることを言ったりもする。「私が私であることに慣れてない」なんてことをオリンピコに漏らしたりするのだ。ただ、オリンピコはそんな繊細さにつき合うような感性もなくて……。

※ 以下、ネタバレあり! 結末にも触れているので要注意!!

映画『星の時』 8/21(金)より公開中

客観視しないということ

ラストは結構唐突だ。白馬の王子様ならぬ、ベンツに乗った白人男性が登場することになるわけだけれど、マカベーアはそのベンツに轢かれて亡くなってしまう。あまりにも呆気ない最期だ。

ただ、そのマカベーアの姿は道路に横たわって眠っているようにも見える。ベッドで寝ている時とほとんど同じ姿なのだ。そして、マカベーアは素敵なドレスを着て、そのベンツの素敵な白人男性と抱き合う瞬間を夢見たまま死んでいくことになる。まさに歓喜の瞬間に死んでしまうというわけだ。

この“夢オチ”に最初は唖然とした。それでも「マカベーアは決して不幸ではなかった」、そんなふうにも思える。キラキラした最期だったのだ(来場者プレゼントのポストカードもこのキラキラした瞬間だった)。

ちなみに原作者は「ブラジルのヴァージニア・ウルフ」と言われている女性なのだとか。日本でも原作は2021年に翻訳されて日本翻訳大賞を受賞して話題になったのだとか。

Amazon.co.jp: 星の時 (河出文庫 リ 6-1) : クラリッセ・リスペクトル, 福嶋 伸洋: 本
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原作は読んでいないけれど、調べてみると原作には語り部がいるらしい。この語り部はなぜか男性だ。女性が書いているにもかかわらず語り部は男性となっていて、その男性が自分が不幸なのにそれに気づいていないマカベーアという女の子について語ったものらしい。

マカベーアを客観的に見ている男性の視点。原作はそんな語り部というクッションを挟んでいるところが映画とは大きく異なるところだろう。恐らく原作では、世の中を知る語り部の男性が、自分が不幸であることに気づいていないマカベーアという女性の最期を描き、それに同情しているということなのだろう。

一方で映画版はほとんどマカベーアの視点で描かれていく。明け方に起きるとひとりで聴いている時報を告げるラジオ番組や、仕事を休んでひとりで楽しそうに踊っている姿。そうした姿を見ているのは観客だけなのだ。

マカベーアは自分を客観視できていない。部屋の仲間にも「トロい顔をしている」などと言われているし、オリンピコにも褒められたりすることもない。にもかかわらず、マカベーアの夢は映画スターなのだ。

彼女がもっと長生きすることになれば、そうした夢が儚いものだと知ることになったのかもしれないけれど、マカベーアはそんなふうに現実を知ることもなく、夢の中で最期を迎えることになるというわけだ。ここにあまり悲壮感はない。

描かれていることは結構シビアな話なのだけれど、マカベーアが何も知らずに幸せのまま死んでいったとしたのなら悪くはないような気がしてしまうのだ。そこがちょっと不思議な映画だった。

とにかくかなり独創的な作品で、特に劇伴の入り方には驚かされた。これを言葉で説明することは難しいけれど、奇妙過ぎてちょっとクセになってくるような感覚があった。

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