原作はリチャード・マグワイアのグラフィックノベル『HERE ヒア』。
監督・脚本は『フォレスト・ガンプ 一期一会』のロバート・ゼメキス。
脚本には『フォレスト・ガンプ 一期一会』のエリック・ロスの名前も挙がっている。
主演は『フォレスト・ガンプ 一期一会』のトム・ハンクスとロビン・ライト。
物語
恐竜が駆け抜け、氷河期を迎え、オークの木が育ち、先住民族の男女が出会う。やがてその場所に家が建てられ、いくつもの家族が入居しては出ていく。1945年、戦地から帰還したアルと妻ローズがその家を購入し、息子リチャードが誕生する。世界が急速に変化していくなか、絵を描くことが得意なリチャードはアーティストを夢見るように。高校生になったリチャードは別の学校に通う弁護士志望のマーガレットと恋に落ち、2人の思いがけない人生が始まる。
(『映画.com』より抜粋)
定点観測するカメラ
『HERE 時を越えて』のカメラは動かない。ずっと定位置に固定されていて、もちろんズームアップしたりすることもない。とにかく“ある地点”だけを延々と映し続けることになる。
ただ、時間軸はあちこちにシャッフルされることになる。中心的なエピソードはリチャード(トム・ハンクス)とマーガレット(ロビン・ライト)という夫婦の物語になっているけれど、二人が住むその家には、その前の住人もいたわけだし、さらにその家が出来る前の時代もあるわけで、本作ではそうした「時の流れ」そのものが追われることになる。
“ある地点”というのは、二人の過ごしたその家のリビングということであり、その場所が「HERE(ここ)」だ。「ここ」という一地点を、時を越えて見つめ続けることになるのだ。
本作は『フォレスト・ガンプ 一期一会』のスタッフとキャストが久しぶりに勢揃いした形になっている。『フォレスト・ガンプ』は50年代から80年代のアメリカの歴史を、ガンプという架空の主人公を通して振り返るような作品だった。
それに対して『HERE 時を越えて』の場合は、もっと大きなスパンで捉えられている。定位置となるのはアメリカのある場所だが、極端に言えば、その場所こそが主人公と言える。多くの人たちがその場所を通り過ぎていくことになるからだ。
正直に言えば、延々と定点観測だと退屈するんじゃないかとも思っていたけれど、そんなことはなかった。ただのリビングの風景でも、次々と時代が変わっていくし、その趣味も様変わりしていく。さらには画面の中に別画面が配置されたりして、そこには別の時代が映し出されたりもする。カメラは固定されていても、結構な情報量となっていて、かえって慌ただしい印象でもあったのだ。

©2024 Miramax Distribution Services, LLC. All Rights Reserved.
先史時代から現代まで
「HERE(ここ)」には最初に恐竜たちがいた。そこに氷河期がやってくる。恐らく恐竜たちは全滅し、その後に人類が登場してくる。そこは現在のアメリカだから、住んでいるのはネイティブ・アメリカンと言われる人たちになる。
そこから一気に時代が下り、植民地時代へと移り変わる。森は切り拓かれ、邪魔になる巨大な岩も取り除かれ、馬車道が通ることになる。「ここ」の位置からちょっと先に見える場所に建ったのは、ベンジャミン・フランクリンの息子が住んでいるという豪華な邸宅だ。
さらに時が経ち、ようやく「ここ」に家が建てられることになる。それまでの馬車道は潰され、舗装された道路が出来、一帯は住宅地として整備されたらしい。そこでようやくカメラは住宅の中に入り込むことになる。ようやく定点観測の舞台であるリビングが整ったのだ。
初めてそこを購入したのは、飛行機乗りとその妻だ。彼は新しい乗り物である飛行機に未来を託していたのだが、飛行機の墜落ではなくて、インフルエンザで死ぬことになる。その次にはソファーを開発している風変りな夫婦が住むことに。二人は画期的なソファーの発明に成功し、どこかへと去っていったらしい。
それから第二次世界大戦から帰ってきたリチャードの父親アル(ポール・ベタニー)と母親ローズ(ケリー・ライリー)が、その家を買うことになるのだ。息子のリチャードはそこで育ち、長じてマーガレットと結婚し、娘も生まれる。夢見がちな一方でビビりでもあるというリチャードは、大人になっても独立することもなく、その家に両親たちと同居して暮らしていく。そのことがマーガレットを不自由に感じさせることになってしまうことになるのだが……。

©2024 Miramax Distribution Services, LLC. All Rights Reserved.
土地に歴史あり
私の田舎の家は、親が買った当時は新興住宅地だった。住民たちは建売住宅がそこに建ってから引っ越してきたわけで、その土地がかつてどんな場所だったかなど知らない人ばかりだった。噂では飛行場があったとかも言われていた。実際のところはわからないけれど、もし飛行場があったとしても、それは飛行機が世の中に登場して以降ということになるし、それ以前は何だったのかは誰も知らないだろう。本作はそんな疑問からできている。「土地に歴史あり」というところだろうか。
本作の物語は基本的にはリチャードたち夫婦に収斂していく形になってはいるけれど、そのほかの家族も描かれる。リチャードたちが離婚してそこを去った後には、黒人一家がしばらく住むことになる。かつては白人たちが住む地域だった場所にも、黒人が入居する時代になったということでもある(コロナ禍でお手伝いさんが亡くなったりして引っ越してしまうことになるのだが)。そのリビングでは白人社会の中に住む黒人が、警察官にどんなふうに対処するかといったことが話題になったりもしている。ここには時代の変化が垣間見えることになる。
ただ、その一方でまったく変わっていないこともあるだろう。誰もが死を迎えるという点では何も変わっていないのだ。本作の「ここ」でも多くの死が描かれている。冒頭の恐竜時代では何らかの卵が恐竜に潰されることになるし、恐竜は氷河期で死んでいっただろう。現代に入ってもインフルで死ぬ者もいたし、笑いながら突然死した人もいた。どうしたってこの世界に居られるのは一時的な期間であり、誰もが「ここ」を去っていくほかないのだ。
本作では恐竜時代にも登場していたハチドリが、最後の最後にも顔を出す。恐竜時代に飛んでいたハチドリと、現代のハチドリは別の個体のはずではあるけれど、ほとんど何も変わっていない。「同じハチドリだ」と言ってもいいのかもしれない。そこに「何の違いがあるのか」ということを言わんとしているのだ。
同じことが人間にも言えるということだろう。「朝には四本足、昼には二本足、夕には三本足になる生き物は?」というクイズがある。これは『オイディプス王』の中でスフィンクスが出した「問い」だ。この答えはもちろん「人間」ということになる。
劇中では、冒頭に本作の主人公とも言えるリビングの姿だけを映した場面があった(公式サイトでも冒頭部分を観ることができる)。そこにはベビーベッドがあり、老人のための杖も置かれており、リチャードの父親が最期を過ごすことになったベッドもあった。
人は時と共に年老いていき、死んでいく。それがスフィンクスが要約した人間の姿ということになる。そういう大きな視点から見れば、リチャードとマーガレットの夫婦もほかの人たちも、もちろんネイティブ・アメリカの夫婦も、何も変わらないということになるのだ。

©2024 Miramax Distribution Services, LLC. All Rights Reserved.
神の視点からの逸脱
原作は評価の高いグラフィックノベルらしい。本作のアイデアはそこからいただいてきているわけだけれど、多分、違いもある。原作も先史時代から始まるのは共通しているけれど、終わりは22175年という遠い未来の話も出てくるようだ。
そこで何が起きることになるのだろうか。もしかしたら地球の終わりということなのかもしれない。もし映画版でそれをやっていたとしたら、もっとヘンテコな作品になっていただろうし、それを観てみたかった気もするけれど、本作はもっと人間のほうに寄せている。リチャードとマーガレットの夫婦はある種の典型的な夫婦の姿なのだろう。だからこそ、誰もがそこに自分との一致を見い出すことが可能になるのだ。
原作通りだったとしたら定点観測の視点は、神の視点にも感じられたかもしれない。しかしながら本作はリチャードたち夫婦を主人公に立てているのだ。ラストでは黒人家族が去って、再び売りに出された家にリチャードとマーガレットが戻ってくる。マーガレットはアルツハイマーで多くのことは忘れてしまったけれど、そこで過ごした時間のことは忘れてはいなかったらしい。
ラストでそれまでずっと定位置を動くことのなかったカメラが、急にマーガレットの顔に近づいていき彼女の表情を捉えることになる。それだけで何だか妙に感動的なシーンになっていたと思う。ここに至って傍観者的な神の視点を逸脱して、本作が人というものの姿に寄り添った瞬間だったようにも思えたのだ。
さすがに若い時代のトム・ハンクスには「ちょっと違和感が」などと感じていたのだけれど、子ども相手に大袈裟すぎるくらいにふざけている姿は、『ビッグ』あたりの無邪気なトム・ハンクスを思い出させてくれた気もする。
コメント