原作は久坂部羊の同名小説。
脚本・監督は『家族X』の𠮷田光希。
主演は『ほつれる』の染谷将太。
物語
ある町のデイケア「異人坂クリニック」に通うお年寄りの間で、漆原院長(染谷将太)が考案した“画期的な”治療が密かに広まっている。究極のコスパの良い介護を目指すその医療行為は、<廃用身>(麻痺などにより、回復見込みがない手足のこと)をめぐる、従来の常識を覆すものだという。その結果、「身体も心も軽くなった」、「厳しい性格が柔らかくなった」などと予想外の“好ましい副作用”が現れたという。噂を聞きつけた編集者・矢倉は、老齢期医療に革命を起こす可能性を感じ取り、漆原に本の出版を持ちかける。しかしやがて、デイケアに関するとある内部告発が週刊誌に流出。さらに、患者宅で起きた衝撃の事件をきっかけに、すべてが暗転していく——。
(公式サイトより抜粋)
喫緊の介護問題
昨年、団塊の世代と呼ばれる人たちの年齢が75歳以上になり後期高齢者となった。これは「2025年問題」などと言われることもあるらしい。日本は世界でも稀に見る超高齢化社会に突入していくことになったのだ。
そうした状況下では、当然ながら介護の問題が発生する。『PLAN 75』や『ロストケア』といった作品がそうしたテーマを取り上げていたけれど、『廃用身』という作品も介護問題に一石を投じるような作品になっている。
公式サイトを見ると、タイトルについての解説が記載されている。
【廃用身】(はいよう—しん):麻痺などにより、回復見込みがない手足のこと。
この記述スタイルはいかにも辞書から引用してきたかのように見える。私はこの言葉が実際の医学用語として存在するものだと思って映画を観ていた。しかし、実際にはそんな言葉はないらしい。『廃用身』はあくまでもフィクションではあるけれど、いかにもありそうなところを狙っている作品なのだ。
「廃用身」という言葉は原作者が考えた造語だ。医学用語としては「廃用肢」という言葉はあるようだが、そこから生まれたものらしい。「廃用」という言葉は、「身体や器官を長期間使わないこと、または使わなくなる状態」のことを指し、そうなると筋力が低下するなどして心身の機能が衰えていくことになる。
使い物にならないものは捨てるほかない。「廃用」という言葉はそんなイメージをもたらす言葉にも思える。実際に、壊れた物は捨ててしまうことが普通だろう。しかしながら、手足の場合は、身体の一部だからそう簡単には捨てるわけにもいかない。
ところが本作の主人公である漆原(染谷将太)という医者は、そこをもっと合理的に考えていくことになるのだ。漆原はデイケア「異人坂クリニック」の院長だ。そこではお年寄りたちの介護が行われている。ただ、介護の現場は過酷で、スタッフたちは重労働を強いられることになる。そうした介護者の負担軽減のために、介護される側の廃用身を切断してしまおうというのが漆原の考えなのだ。

©2025 N.R.E.
介護の負担軽減のために
突飛な考えなのかもしれない。しかし原作者の久坂部羊によれば、在宅医療の現場では「動かなくなった手足を切断してほしい」といった話が実際に出てくることもあるのだという。
麻痺して動かなくなった手足でも、人によっては痛みを感じる場合もあるようだ。あるいはそうでなくてもダルさを感じる場合や、冷感がある人もいるとのこと。役には立たないけれど邪魔になっているわけだ。そうした問題の解決には切断くらいしか方法ないのだ。
ただ、医療行為となれば、勝手に切断するのでは医療保険が通らない。だから簡単には切断できないわけで、そうしたアイディアをフィクションとして描いたのが原作小説だったのだ。
原作者は、廃用身の切断を介護の負担軽減の解決策のひとつとして本気で考えているのだ。かなり大胆な提案とも思えるけれど、実際の現場を知っている人としては、そんな極端な方法を選択しなければならないほど過酷な状況があるということらしい。そうでもしなければ介護の現場が回っていかないのだ。

©2025 N.R.E.
Aケアという実践
漆原は廃用身の切断を「Aケア」と名付ける。Aというのは「切断」を意味する「Amputation」を指す。そして治療(キュア)するわけではないから、介護(ケア)と呼ぶことになる。
『廃用身』では、最初のAケア実践者である岩上(六平直政)のケースが丁寧に追われる。これを見ていると、漆原が強引にAケアの実践を進めているわけではないことがわかる。
岩上が最初に片足の切断に応じたのは、その足が壊死し始めていたからで、さらに廃用身であるもう一方の足と左腕の切断を決めたのは、岩上が片足を切断したことで自分が身軽になり、少しずつ動けるようになることがわかったからだ。
この最初の成功で「異人坂クリニック」においては、岩上と同じようにAケアを実践する人が増えていく。そうするとその副作用とでも言うべきなのか、認知症が改善されたり、言語機能が回復するなど、Aケアがプラスに働いたと思われるケースが出てくることになるのだ。
そうした噂を聞きつけた矢倉(北村有起哉)という記者は、医療業界に起きるかもしれない革命としてそれを捉える。そして、漆原に本を書くように勧める。医療業界を変えることは簡単ではないけれど、一般の読者に先に訴え、Aケアというものを世に問おうとするのだ。
こうした前半部分を観ていると、もしかすると未来の現実世界では、介護問題の解決にAケアが行われることもあり得るんじゃないかという気もしてくるのだ。
実際には、手足の切断によって血の巡りが変わり、認知症が改善されたなどのデータはないらしい。それでも手足を切断すれば体重は軽くなることは確かなわけで、介護の負担軽減になることは間違いないのだ。

©2025 N.R.E.
状況の変化
ところが物事はそう簡単には行かない。最初のAケアの実践者である岩上がとんでもない事件を起こしてしまうのだ。
岩上はAケアの後、右腕一本で新しい生活を楽しんでいると言っていたのだが、彼には秘めた目的があった。その目的というのが、介護が必要な状況の岩上を虐待し続けてきた家族への復讐だったのだ(息子役の廣末哲万のクズっぷり!)。
この事件で状況は一変してしまう。マスコミは漆原を患者の手足を勝手に切断した悪魔のような医師としてセンセーショナルに取り上げることになるからだ。
そうなるとAケアのマイナスの部分が一気に噴出してくる。そもそも最初から手足の切断ということを生理的に嫌がる人もいた。ある看護師(中井友望)は最初からそれを懸念していて、クリニックを辞めてしまうことになる。
また、ある人は「異人坂クリニック」内部では、Aケアを実践することに同意を求めるような空気が醸成されていて、周囲の状況に強いられる形でAケアを実践してしまい、今になって後悔していると言い始めることになる。
Aケアを取り巻く状況は変わり、マスコミは漆原の過去についても暴露する。かつて漆原が蝶々の羽をむしり取ったという出来事まで掘り返されてくるのだ。漆原という医師はサイコパスで、蝶々の羽をむしり取るのと同じで、患者の手足をもぎ取ることを楽しんでいた。そんな論調で漆原を非難することになっていく。
漆原は真っ当な医者に見えるけれど、一方でその冷静な態度は何か裏があると思わせなくもない。劇伴もどこか不穏なものがあって、ホラー映画のようなおどろおどろしいところを感じさせなくもないのだ。
漆原はサイコパスで手足の切断を楽しんでいたのか。あるいは介護の負担軽減を真摯に考えていたのか。それに対して明確に答える前に、漆原は自ら「頭はわたしの廃用身」だとして、自殺してしまうことになるのだ。

©2025 N.R.E.
漆原の正体?
漆原の真意はどこにあったのか? その答えは彼の死で永遠に謎になったのだろうか。私には、本作はその後のエピローグ的な部分で、明確に答えを示していたように思えた。
冒頭ではあるAケア実践者の様子が捉えられていた。この女性は四肢のすべてを切断し、いわゆるだるま状態になっている。都市伝説として「だるま女」というものもあるようだし、『ボクシング・ヘレナ』という映画もあった。
四肢のすべてを切断することは、一種の監禁の手段ともなり得る。まさに手も足も出ないというわけで、自分でできることはほとんどないもないように見えるからだ。これはとても怖いことにも思える。
では本作はそういうだるま状態の人をおぞましいものとしているのか? そんなふうに感じる人もいるだろう。しかし本作ではそうではなかった気がする。
冒頭に描かれただるま状態の女性は、中盤にももう一度出てくる。しかしながら、彼女は漆原との接触場面もないし、その背景に関しては何も描かれないわけで、ちょっと不思議なシーンとも言えるだろう。
ここから先は私の思い込みも混じっているわけだけれど、この女性の描写はカール・ドライヤーの『奇跡』へのオマージュだったんじゃないだろうか? 冒頭のシーンでは、この女性はベッドのリクライニング機能で、むっくりと起き上がる様子が捉えられる。この姿は『奇跡』の蘇りを何となく思わせるのだ(実際の『奇跡』のシーンはむっくりと起き上がるわけではないけれど)。そして、ラストでは同じように四肢を切断した男性に奇跡が起きたことが示唆されることになるのだ。
漆原という医師がやってきたことは、そういう大きな可能性を秘めているということが明らかになるわけだ。漆原の奥様(瀧内公美)は最後にそのことに気づいたのだろう。
もちろんここには原作者や監督の希望も混じっている。手足の切断ということは簡単には受け入れられない。それでも介護の問題がさらに過酷になるであろう未来には、それが必要とされる時代が来る。そんなことを訴えようとしているのだ。
かつては輸血や移植なども大きな抵抗があったはずだ。しかし今では当たり前のものとなっている。もしかすると廃用身の切断もそういうものと同じように受け入れられることになるのかもしれないのだ。




コメント