監督・脚本は『ツバル』などのファイト・ヘルマー。
2023年の第36回東京国際映画祭コンペティション部門に出品された作品。
ドイツ・ジョージア合作映画。
物語
イヴァは村のゴンドラ(ロープウェイ)の乗務員として働き始める。もう1台のゴンドラの乗務員はニノ。
駅長は威張り屋で、その態度ときたら腹が立つことばかり。
行ったり来たり、すれ違うゴンドラは世界のどこかに行くわけではないけれど。想像力があればどこへでも行けるのだ。
2人はゴンドラに “衣替え”させ、ニューヨーク行きの飛行機にしたり、リオ行きの蒸気船にしたり、火星行きのロケットにしたり。奇想天外なやりとりは、2人の距離をどんどん近づけていく。
そしてある日、2人の優しい悪戯が駅長を激怒させ、やがてそれは地上の住民も巻き込むのだが……。
(公式サイトより抜粋)
<セリフなし映画>とは?
『ゴンドラ』もファイト・ヘルマー監督お得意の台詞がほとんどない<セリフなし映画>となっている。ファイト・ヘルマーは公式サイトの中で、本作が「サイレント」映画ではないとわざわざ否定している。
もともとサイレント映画は音響効果そのものがない。通常は劇伴などを後から付け足して上映されることも多いけれど、本来は映像だけの作品ということになる。本作のような<セリフなし映画>は、そうした映像だけの作品とは異なるということをファイト・ヘルマーは意識しているのだろう。
本作では台詞がないというだけで、人々の笑い声や憤懣を示す鼻息など、劇中の様々な音に関してはとても繊細に捉えられている。かなり古臭いロープウェイのゴンドラがギシギシと軋む音や、大きな滑車が回る音などが作品にリズムを与えていたと思う。
ちなみにファイト・ヘルマーはごく普通の台詞がある『ゲート・トゥ・ヘブン』という映画も撮っている。『パリ空港の人々』みたいに空港内部で生活する人を描いた作品だが、舞台そのものは変わっているけれどあくまでも現実的な話になっているのだ。
それに対して<セリフなし映画>の本作は、なぜか禁欲的なまでに登場人物が口を開かないわけでちょっとだけ別世界のようにも感じられる。駅長(ズカ・パプアシヴィリ)は新人乗務員を選ぶのに面接を行うことになるのだが、制服がその人にピッタリ合うかどうかだけで新人を選んでいる。
これは前作の『ブラ!ブラ!ブラ! 胸いっぱいの愛を』でもやっていたことで、シンデレラの靴と同じことをやっているわけだが、そうしたことがすんなりとまかり通ってしまうような不思議な世界になっているのだ。現実世界からちょっとだけ遊離した世界を描けるということが<セリフなし映画>の効用なのかもしれない。
主役はゴンドラ?
物語らしきものはほとんどない。イヴァ(マチルド・イルマン)が新人としてゴンドラの乗務員になると、古株の乗務員ニノ(ニニ・ソセリア)がその仕事を教えることになる(台詞がないから劇中では名前は一切わからないけれど)。
それからふたりは2台あるゴンドラのそれぞれに乗り込むことになる。同じ仕事をしていても、ふたりは別々のゴンドラに乗っているわけで、互いのゴンドラがすれ違う瞬間くらいしか顔を合わせることがない。ふたりはそんな瞬間を楽しもうとアレコレ工夫することになっていき……。
前作の『ブラ!ブラ!ブラ!』の時にも記したのだけれど、ファイト・ヘルマーは乗り物が大好きで、多くの場合、物語の中心には乗り物が据えられている。『ゴンドラ』の場合はすでにタイトルからして乗り物ということで、ロープウェイのゴンドラがほとんど主役みたいな形になっている。
劇中では、ふたりの飾り付けによってゴンドラがニューヨーク行きの飛行機に化けてしまったり、蒸気船になってみたり、ロケットになったりする。ほとんどひとつのアイデアだけで強引に引っ張っていく作品で、とても楽しくてかわいらしい作品になっていることは間違いない。
<セリフなし映画>の系譜
それでも今ひとつ本作にはノレなかった気もする。それがなぜなのかはよくわからない。イヴァとニノのやっていることはかなり子どもじみているけれど、同時に大人の女性の雰囲気もあって色っぽい瞬間もある。一時はニノの封筒を巡ってケンカになったりもするけれど、いつの間にかに仲直りをしていたりする(一体何の封筒だったんだろうか?)。
ふたりの関係がどこに行きつこうとしているのかがよくわからなくて戸惑ってしまったのかもしれない。同性愛的な関係だから、わかりやすく描けなかったということなのだろうか。尤も、ふたりの関係もロープウェイが行ったり来たりを繰り返すだけで「どこにもたどり着かない」のと同じなのかもしれないけれど……。
ロープウェイというものは山と山の間を結ぶような形で設置されている。それがどこから出発しどこへ向かうのかは劇中ではよくわからないけれど、地元と密接した乗り物であることは確かだろう。ゴンドラの上からは下の住民が何をしているかがハッキリとわかるし、住民もゴンドラで棺が運ばれていくとそれに対して弔意を表することになる。
最後は地元の住民も巻き込んでの騒動ということになるけれど、<セリフなし映画>だからか地元の住民が騒動に加担することになる経緯というものがよくわからなかった。台詞がないだけに状況を詳しく説明することが難しいという弊害もあるということなのかもしれない。
それでも私はファイト・ヘルマーが言うところの<セリフなし映画>が大好きだ。ファイト・ヘルマーのデビュー作『ツバル』は掛け値なしの傑作だったと思うし、お気に入りの作品の中に<セリフなし映画>の割合が高い気もする。
たとえばリュック・ベッソンの『最後の戦い』や、『草原の実験』というロシア映画などもお気に入りの作品だ。それからキム・ギドクもいくつかの<セリフなし映画>を撮っていて、厳密には主人公が一言も話さないというだけで<セリフなし映画>とは違うかもしれないけれど『魚と寝る女』もその系譜に連なる作品ということになるのかもしれない。
そんなわけで期待が大きすぎた分、本作は今ひとつノレなかったのかもしれない。<セリフなし映画>はハマればとても素晴らしい作品になるけれど、決して簡単に作れるものではないということでもあるのだろう。
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