企画・脚本・プロデュースは『劇場版コード・ブルー ドクターヘリ緊急救命』の増本淳。
監督は『かくしごと』の関根光才。
主演は『罪の声』の小栗旬。
物語
未知のウイルスに最前線で立ち向かったのは、我々と同じ日常を持ちながらも、眼の前の「命」を救うことを最優先にした人々だった。
船外から全体を指揮するDMAT指揮官・結城(小栗旬)と厚労省の立松(松坂桃李)、船内に乗り込んだ医師の仙道(窪塚洋介)と真田(池松壮亮)、そして羽鳥(森七菜)をはじめとした船内クルーと乗客たち。
TV局の記者・上野(桜井ユキ)らマスコミの加熱報道が世論を煽る中、明日さえわからない絶望の船内で、彼らは誰1人としてあきらめなかった。全員が下船し、かけがえのない日常を取り戻すために――。
(公式サイトより抜粋)
あの時、あの場所で何が?
新型コロナウイルスの流行は、世の中を大きく変えるような出来事だった。多くの人が仕事を休み、自宅待機などを余儀なくされ、人の行き来も断念される時期が長く続いた。それまでとはまったく違う世の中になったのだ。
それでも5年経った今となると、ほぼ忘れ去られているような気もする。映画館での「咳エチケット」などと言っても、あまり気にしてなそうな人もいるし、マスクを付けている人のほうが少ないかもしれない。
そんな時期だからこそなのか、新型コロナ禍というものが日本にとっても他人事ではないと思わせた最初の出来事の映画化ということになる。ダイヤモンド・プリンセス号における集団感染だ。
当時はマスコミの報道を見るだけではどんなことが起きているのかわからないことだらけだったわけで、東日本大震災における福島第一原子力発電所の事故を描いた『Fukushima 50』と同じで、『フロントライン』は作られるべくして作られた映画ということになるのだろう。
NHKが作った「新型コロナタイムライン」によると、「武漢での原因不明の肺炎に厚労省が注意喚起」をしたのが2020年1月6日。日本国内で初めて感染者が出たのが1月15日。その後に武漢から日本人をチャーター便で帰国させることなどが何度かあったりし、2月3日に乗客の感染が確認されたクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号が横浜に入港することになった。
ウイルスというものは目に見えない。だからいつ日本に入ってきたとしても、それはわからないうちにということになる。海外での流行が騒がれ出され、日本にも少しずつ感染者が出始めた頃、大型のクルーズ船という目に見えるものが日本の港に入港することになったわけだ。内部では感染者が出ていて、3000人以上もの人が乗船していたのだ。
新型コロナという目には見えない“何か”を、日本に住む人たちに最初に実感させてくれたのが、このダイヤモンド・プリンセス号だったとも言えるのだ。

©2025「フロントライン」製作委員会
DMATとは何か?
当時は報道で伝え聞くことしかできなかったダイヤモンド・プリンセス号内部の状況を、本作はつまびらかにしていく。報道で聞いた記憶はないけれど、船内での患者の治療や搬送に携わることになったのは、DMAT(Disaster Medical Assistance Team)と呼ばれる組織だ。大規模災害などで活躍することになる医療チームということになる。ちなみにDMATはボランティアなのだという。あくまでも自発的に集まって活動している医者たちということになる。
ただ、DMATは感染症は専門外だったらしい。日本は島国ということもあり、それまでは水際で感染症などを防ぐことができた。それもあってたとえばアメリカのCDC(アメリカ疾病予防管理センター)のような組織がなかったのだ。感染症の対策をそこまで重要視してこなかったのだ。というか、それほど必要ではなかったということでもあるのかもしれない。
ところが昨今、世界の人の流れは大きく変わった。世界中を旅することもそれほど珍しいことではなくなったわけで、感染症というものが爆発的に広がる下地は整っていたと言えるのかもしれない。
そうした中で新型コロナの感染が発覚し、日本においてそれを専門としている組織はどこにもない。かといって、それを放っておくわけにもいかないわけで、そうした状況がDMATを呼び出させることになる。
最初に電話を受けたのはDMATの指揮官である結城(小栗旬)だ。結城も最初は、未知のウイルスがいる船内に自分の部下たちを行かせることを躊躇うことになる。しかし、厚生労働省の立松(松坂桃李)はこともなげに言い放つ。「誰かにお願いするしかないんですよ」と。
立松は若いけれど、肝が座っている。「自分がやらなければ」という意識がそうさせるのかもしれない。彼はすでに自衛隊などから救急車を借り受け、病人を収容する病院の当てまでつけて、その場所にやってきていた。その様子を見た結城もやるしかないと決意をすることになる。結城がそれを決めたのは、「人道的にそうするのが正しい」と考えたからだった。

©2025「フロントライン」製作委員会
感染対策か、患者の命か
とはいえ、対処に当たった人たちも一枚岩ではなかったようで、考え方の違いがトラブルを引き起こしたりもする。
対策室らしき場所で指揮を取るのは厚労省の立松とDMATの結城だが、二人の考えにも違いがある。厚労省は国内に感染症を持ち込まないということのほうを優先している。一方でDMATたちの意識は別のところにある。DMATは医者たちの集まりだ。医者は患者の命を優先する。感染症よりも船内に隔離されている多くの人の命のほうが第一だと考えるのだ。
ここにはDMATの過去の失敗が働いている。船内という現場で直接指示を出している仙道(窪塚洋介)は、東日本大震災の時に苦い経験をしたらしい。大災害の混乱の中で避難に時間がかかり、多くの命を失ったのだ。それは放射能の被害ではなくて、持病とか寒さといった問題だった。自分たちの対処方法が間違っていたからこそそんな失敗をしたと考えている仙道は、その教訓を船内での優先順位に活かすことになる。
そうしたDMATの考えは、厚労省の立松にも理解されることになり、立松はDMATに協力的に動いてくれることになっていく。
こうした考え方の違いは、感染症医の六合教授(吹越満)や、船内スタッフの羽鳥(森七菜)への対応にも表れている。
六合教授は感染症対策の専門家として一度は船内に入るものの、結局は優先されるべきは感染症対策よりも患者の命ということもあり、ほとんど意見は取り入れられることもなく追い出されたらしい(このことが後でトラブルになったりもする)。
一方で「患者の家族の気持ちにも配慮を」と望んだ羽鳥の願いは、取り入れられることになる。「やれることは全部やろう」という結城の精神がDMATには行き届いているのだ。

©2025「フロントライン」製作委員会
嘘はないけれど……
本作は当時ダイヤモンド・プリンセス号に乗っていた人たちに取材した作品で、ここで描かれていることはだいたいそのように起こったのだろう。そこに嘘はない。
新型コロナというよくわからない“何か”との闘いの最前線には、実際に立松やDMATのような人たちがいて、未知のものと闘ってくれていたということだ。そのことに関しては、改めて頭が下がる思いだ。そうすることが人道的に正しいと思ってくれるような人たちが存在したことには感謝しかないだろう。
とはいえ、映画として見ると、やはり『Fukushima 50』と同じで諸手を挙げて褒めようとまでは思えなかった。とてもよく出来た再現ドラマではあるし、感動的な美談ではあるけれど……。
本作で仙道を演じた窪塚洋介は、舞台挨拶で当時のことを振り返って、「テレビを見ながら“船から人を降ろしてるんじゃねーよ”と」と思っていたと反省している。正直な人なんだろうと思う。実際、私もそう思っていた気がする。もちろん大きな声では言えないけれど……。
本作はマスコミを批判することにもなっている。桜井ユキが演じたテレビ局の上野は、マスコミが面白がっていることを示す役割だろう。しかし、彼女はDMATたちの働きを知るにつれ、その態度を改めることになり、自らを反省することになった。
マスコミに批判すべき点があるのは事実だろう。騒動を面白がって報道し、下手すれば騒ぎが大きくなることを望んでいるふうでもあるからだ。しかし、マスコミの態度は視聴者ありきということでもある。彼らの指標は視聴率であり、それはわれわれの視聴者の望んでいることでもあるわけだから。つまりは何が言いたいのかと言えば、マスコミ批判は傍から見て勝手なことを言ったりしていたわれわれにも当てはまることなのかもしれないのだ。
その上で、本作において気になったことを書いてみたいと思う。本作においてDMAT隊員とその家族の関わりを示す役割を与えられているのは真田(池松壮亮)だろう。真田は自分がダイヤモンド・プリンセス号で働くことに関して奥様には箝口令を言い渡し、娘にも何を言わずに出かけていくことになる。それから再び家族が登場するシーンは、すべてのことが終わってからということになる。
その期間が何日なのかは劇中ではよくわからない。恐らく数週間はそこで働いたはずだ。その間、真田はずっと船内にいたわけではないはずなのだが、彼が自宅に戻るシーンはない。DMATの隊員はずっと船内に缶詰状態だったように見えなくもないのだ。
途中でDMATの女性の隊員が、保育園に子供を預けられないから仕事に出られないと電話してくる場面もあるし、実際には隊員たちはそれぞれ自宅に戻って休んでいたはずだ。しかし、そういうシーンは省かれている。
ここには妙な配慮が働いているような気がしてしまった。先ほど、コロナ患者を下船させることに対し、テレビでそれを見ていた視聴者が勝手なことを言っていたことから推測すれば、たとえボランティアの医者たちとはいえ、患者に接した人が下船して家に戻ることを快く感じない人もいるだろう(本作を観たならばそんなことは思わないかもしれないけれど)。
現場の医者たちが感染を広めたなんてことはなかったのだろうし、劇中の真田は謂れなき理由で子供が差別を受けるのは耐えられないと結城に訴えていたわけで、当然ながら自分が感染しないのはもちろんのこと、それを家庭に持ち込まないということにはさらなる細心の注意を払っていたはずだ。
それでも本作ではDMATの対応に対して余計な疑念を抱かせないためにも、そういうシーンは一切なかったのだろう。余計な火種を作ってしまうことで、DMATというヒーローを潰してしまわないようにという配慮だろうか?
これはもちろん嘘ではない。すべてが描写されなければならないわけではないのだから。けれどもわざわざ知らせる必要もないと、隠している気もしないでもない。未知のウイルスの不安に駆られた人が心配するところはそういうところという気もするし、それを隠す必要はなかったんじゃないかとも思う。それでもやはり映画という作品にするためにはヒーローが必要だったということなのだろうか。そのあたりが気になってしまった。
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