『エマニュエル』 「痛み」と「快楽」の違い?

外国映画

1974年のシルビア・クリステル主演『エマニエル夫人』のリメイク。

監督は『あのこと』オードレイ・ディヴァン

主演は『燃ゆる女の肖像』などのノエミ・メルラン

物語

エマニュエルは仕事でオーナーからの査察依頼を受け、香港の高級ホテルに滞在しながらその裏側を調べ始めるが、ホテル関係者や妖しげな宿泊客たちとの交流は、彼女を「禁断の快感」へといざない──。

(公式サイトより抜粋)

あの作品のリメイク?

本作は1974年に公開された『エマニエル夫人』のリメイクだ。『エマニエル夫人』は日本でも大ヒットしたようで、テレビなどであの有名な主題歌は何度も聴いていた。そんなこともあってすでに観たつもりになっていたのだが実はまだ観ていなかったので、今回は本作に合わせて初めて観た。ちなみにオリジナル版も「エマニュエル夫人」なんだとばかり思っていたのだが、「エマエル夫人」が正しいらしい。

「本作はリメイク」と記したけれど、オードレイ・ディヴァン監督としては「リメイクではない」と考えているらしい。オリジナル版よりも原作に忠実ということなのかもしれない。私自身は原作を読んでないので詳しいことはわからないけれど、「女性の性の解放」ということがテーマになっているにも関わらず、オリジナル版は主人公のエマニエルが男性から「見られる」側として描かれているところがあるからなのかもしれない。

オリジナルの『エマニエル夫人』では、エマニエルの旦那の台詞に「見ると同じ位見せたいのさ」というものがある。旦那にとってはエマニエルは「見る」あるいは「見せる」対象となっているのだ。さらには監督も写真家出身の男性だし、男性から「見られる」側となっているのがエマニエルという主人公だったということなのだろう(観客は意外と女性が多かったようだが)。

それに対して『エマニュエル』はまったく違ったアプローチとなっている。主人公のエマニュエルはオリジナル版のように結婚している女性ではない。バリバリと仕事をこなすキャリアウーマンなのだ。オリジナル版ではエマニエルは旦那や年上の男性から導かれるような存在だったのに対し、本作のエマニュエルは自立していて自ら積極的に行動していく女性となっている。

また、エマニュエルの仕事は高級ホテルの査察だ。従業員たちを監視し、その仕事ぶりを評価する役割を担っている。彼女はほかの人たちを「見る」側にいる人なのだ。オリジナルのエマニエルが「見られる」側だったのとは対照的なキャラということになる。

さらに本作でエマニュエルを演じたのがノエミ・メルランということが大きいだろう。彼女は『燃ゆる女の肖像』などでも明らかなように、その強い意志を感じさせる目が印象的な女性だからだ。男性に導かれるような女性ではなく、彼女自身が主体となっていることをその目が主張しているように見えるのだ。

©2024 CHANTELOUVE – RECTANGLE PRODUCTIONS – GOODFELLAS – PATHÉ FILMS

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性的快楽の意味するもの

冒頭からエマニュエルは飛行機のトイレの中で男を誘ってセックスをする。バーで出会った不倫カップルとは3Pを楽しむことになる。ホテルのプールに出入りする女性ゼルダ(チャチャ・ホアン)とも親しくなり、ふたりで自慰行為に耽ったりもする。エマニュエルは仕事の合い間のプライベートでは、そんなふうに積極的に性的快楽に身を任せている。

ただ、エマニュエルがなぜそんなふうに性的快楽を求めなければならないのかがよくわからなかった。オリジナル版のエマニエルのように、暇を持て余していて「退屈こそが敵」という状況ならば、性的快楽に耽るのも理解できる気がするけれど、忙しい中でなぜか相手を探しているエマニュエルの求めるものが何なのかがあまり理解できなかったのだ。

とはいえ、ラストのエマニュエルの表情から振り返ると、エマニュエルは性的快楽に溺れていたわけではなく、性的満足感を味わうことができないからこそ、それを探求していたということのようだ。単なる性的放埓を繰り返し見せられているような気にもなっていたのだが、そういう意図があったということらしい。

©2024 CHANTELOUVE – RECTANGLE PRODUCTIONS – GOODFELLAS – PATHÉ FILMS

「痛み」と「快楽」の違い?

オードレイ・ディヴァン監督によれば、本作のエマニュエルは快楽も欲望も感じない主人公ということらしい。しかしながらやっていることはセックス三昧とも見えるので、そのあたりが鈍感な観客である私には伝わってこなかった。

本作では重要なキャラとして、謎めいた日本人が登場する。そのケイ・シノハラ(ウィル・シャープ)は高級ホテルに部屋をとりながらも、なぜかその部屋を使わないという変り者だ。監督曰く、エマニュエルとケイは似た者同士ということになる。ケイは欲望というものはとうに失せてしまったのだという。エマニュエルはそんなケイに惹かれていくことになるのだが、それは同じ匂いを感じたからなのだろうか。

オードレイ・ディヴァン監督の前作『あのこと』は、主人公の感じる「痛み」というものを観客に実際に体感させてしまうようなところがあった。一方で、本作のような性的快楽というものを共有するというのは難しいのかもしれない。「痛み」は万人に共通なのかもしれないけれど、「快楽」というものはもっと繊細なのだろうか。

さらに言えば、感じていないことを表現することも難しいだろう。ケイが「欲望が失せた」というのは、彼がエマニュエルからの質問に答えたからであり、実際にそうなのかどうかはわからないとも言える(ただ、ラストの行動から見れば、ケイの答えは正直なものなのだろう)。

エマニュエルのセックス三昧の日々を、私自身はその行動から性的放埓としか見ていなかったのだが、彼女の無表情から別のものを見出すべきだったということらしい。オリジナル版の場合は、エマニエルが「見られる」側にいたわけで、美的なシーンによってそれを表現することができたとも言える。一方で、本作が描こうとしているのは心の中ということになるのだろう。エマニュエルは行動と感情がちぐはぐなのだが、そのあたりが私にはよくわからなかったのだ。

それなりに煽情的なシーンはあったりもするのだけれど、そればかりが続いていくと単調にも感じられてくる。要は退屈なのだ。セックスばかりの映画の時はいつもそんなふうに書いている気もする。そんな意味では、「欲望が失われている」というのは理解できる気もするけれど、なぜそれを必死に探求しなければならないのかは謎だった。

それからエマニュエルの性的快楽への行動と並行して描かれる仕事というものが、本作において何の役割を果たしているのかが総じて見えてこなかった。台風によってホテルが水浸しになってしまうエピソードなんて一体どういう意図があったのだろうか?

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