『か「」く「」し「」ご「」と「』 違うようで同じ?

日本映画

原作は『君の膵臓をたべたい』住野よるの同名小説。

監督は『カランコエの花』中川駿

主演は『MOTHER マザー』奥平大兼

物語

みんなには隠している、少しだけ特別なチカラ。
それぞれの“かくしごと”が織りなす、もどかしくも切ない物語。
「自分なんて」と引け目を感じている高校生・大塚京(奥平大兼)は、ヒロインじゃなくてヒーローになりたいクラスの人気者、三木直子・通称ミッキー(出口夏希)が気になって仕方がない。
予測不能な言動でマイペースな黒田・通称パラ(菊池日菜子)と一緒に、明るく楽しそうにしている彼女を、いつも遠くから見つめるだけ。
そんな三木の幼馴染で京の親友の、高崎博文・通称ヅカ(佐野晶哉)を通して、卒業するその日まで“友達の友達”として一緒にいるはずだった——
ある日、内気な性格の宮里・通称エル(早瀬憩)が、学校に来なくなったことをきっかけに、5人の想いが動き出す——

(公式サイトより抜粋)

奇抜なタイトル

予告編をちょっと観ただけだったので、ほとんど中身を知らずに観たのだけれど、他人の気持がちょっとだけわかってしまうという特殊能力は、京(奥平大兼)という主人公だけなのだと勘違いしていた。

実は本作は群像劇であり、それぞれのエピソードで視点人物が変わっていく。そして、それぞれ自分だけが特殊な能力があると思い込んでいるのだが、実はみんなが似たような能力は持っているのだ。

それにしてもタイトルがかなり変わっている。そもそも読むことすらできないし、単なる落書きにも見え、タイトルとは判断できないくらいだ。しかしこれも、原作小説の各章のタイトルを並べてみると、何となく意味はわかることになる。

「か、く。し!ご?と」(京目線)
「か/く\し=ご*と」(ミッキー目線)
「か1く2し3ご4と」(パラ目線)
「か♠く♢し♣ご♡と」(ヅカ目線)
「か→く↓し←ご↑と」(エル目線)

それぞれ人の気持ちの見え方が異なるのだ。京の場合は人の気持が「!」とか「?」などの記号になって見え、パラ(菊池日菜子)の場合は数字になり、エル(早瀬憩)の場合は矢印となるというわけだ。それを「」に入れると本作のタイトルができあがるというわけなのだが、やはり奇抜なタイトルだ。

というか、端的に読めないから困る。多分、検索システムの判断としては、「」は飛ばされるから『かくしごと』というふうに理解されるということなのだろう。そうすると昨年公開された『かくしごと』と被ってしまうことになる。

そもそも今はグーグル検索に引っかかるか否かということはかなり重要な要素なのだろう。映画のタイトルもたとえば『Swallow/スワロウ』みたいに、英語とカタカナ表記をわざわざ並列にしているのは、そうでないと検索に引っかかりにくいため、苦肉の策としてなのだろう。そういうことからすると、余計に思い切ったタイトルとも思えてくる。

©2025『か「」く「」し「」ご「」と「』製作委員会

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特殊能力とは?

結局、登場人物たちの特殊な能力というのは、それぞれがどんなふうに他人の気持ちを推し測っているのかということを、視覚的にわかりやすい表現にしたに過ぎないということなのだろう。それぞれが他人の気持がわかるとか言いつつも、それがほかの人に視点が移行すると勘違いだったりもするわけで、かなりいい加減なものなのだ。見えている世界が違うようでいて、あまり変わりはないのかもしれない。

最初から「ちょっとだけわかる」と断りを入れている部分もあるわけで、完璧にわかるわけではないという“言い訳”は用意しているとも言える。

そんなふうにわかったようなつもりになってしまうからこそ、かえって動けなくなってしまったり、余計なことをしてしまったりもするらしい。それにみんないい子たちばかりで、自分のことよりも他人のことを優先したりもするのだ(エルが好きだった相手は明白だったけれど、彼女はその人のために行動する)。

最初の視点人物の京は、その特殊能力で一度失敗しているから、余計にミッキーに対しては何もわからないフリをして見せなければならなくなる。京が想いを寄せるのはクラスで一番の人気者のミッキー(出口夏希)で、自分には釣り合わないと思ってしまうらしいのだ。

ミッキーは明るいキャラで、誰からも好かれるタイプだ。しかも彼女はヒーローになりたいと感じている、正義漢でもある(女子だけれど)。いかにも真っ直ぐなキャラなのだ。もちろんそんなミッキーにも悩みもあったりして、ミッキーが視点人物となるエピソードではそれが垣間見えたりもする。とはいえ傍から見たら彼女はキラキラと輝いているわけで、京からすれば「自分には到底無理」といった気持ちになるのもわからなくもない。

©2025『か「」く「」し「」ご「」と「』製作委員会

惚れた腫れたとそれ以外

そんなわけで『か「」く「」し「」ご「」と「』における特殊能力の使い道は、結局は人間関係を見極めることに尽きている。要は「誰が誰のことが好きで」といった恋の話というわけで、いわゆる若者向けの「キラキラ映画」の類いなのだろう。それにしては京の態度はあまりにウジウジしていていて、もどかしいくらいだけれど、登場人物の興味・関心が色恋にあることに関しては間違いはないだろう。

正直に言えば、そうした惚れた腫れたといった話が面白いかと言えば、どうでもいいことにも思えてくるわけで、5人の中ではパラとヅカ(佐野晶哉)とのやり取りが一番しっくりときた。この2人は、ほかの3人と比べて真っ直ぐじゃないところがあるからかもしれない。

パラとヅカは似た者同士だけれど、だからこそ「嫌い」というか「気に入らない」と思っているところがある。それでも共感するところもあり、パラが演劇祭で真っ白になったミッキーを助けるためにやったアドリブがヅカに響いたのだ。それが「自分の弱さを認められない世界なんて」といった台詞だ。こういう感覚ならば若者じゃなくても共感できる部分があるだろう。

尤も、若い観客は惚れた腫れたのアレコレを見たいのかもしれないけれど……。若くはない観客としては、屈託のない若者なんて見せられてもつまらないということかもしれないし、まぶしすぎて気恥ずかしいということかもしれない。

キャストとしては奥平大兼だけしか知らなかったけれど、全員がそれぞれに個性を発揮していたところは良かったと思う。いい人なのにもどかしいくらい自己評価が低い奥平大兼に対して、いつも笑っているけれど掴みどころがない佐野晶哉出口夏希は誰からも好かれる魅力的なキャラを演じて違和感がなかったし、背が高くてカッコいい菊池日菜子と小さくて可愛らしい早瀬憩という対照的な役柄も映えていた。

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