監督はパオラ・コルテッレージ。イタリアでは知らない人はいないコメディエンヌということ。本作は監督としてのデビュー作。
原題は「C’e ancora domani」で、「まだ明日がある」という意味。
本作はイタリアのアカデミー賞といわれるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞において、主演女優賞や新人監督賞など4部門で最優秀賞を獲得し、大ヒットを記録したらしい。
物語
1946年5月。ローマにある半地下の家で家族と暮らすデリアは、夫イヴァーノの暴力に悩まされながらも意地悪な義父の介護や家事をこなし、さらに複数の仕事を掛け持ちして家計を助けている。過酷な毎日を送る彼女にとって、市場で青果店を営む友人マリーザや自動車工のニーノと過ごす時間だけが心休まるときだった。母の生き方に不満を感じている長女マルチェッラは、裕福な家の息子ジュリオからプロポーズされ、彼の家族を自宅に招いて昼食会を開くことに。そんなある日、デリアのもとに1通の謎めいた手紙が届く。
(『映画.com』より抜粋)
イタリアの母親のイメージ
イタリアは家族の結束が強いというイメージがあり、その中心にいるのが肝っ玉かあさんのようなマンマだ。もちろんこれは日本人の私が勝手に思い描いているイメージでしかないわけだけれど、世間的なイメージとしてはそれほど間違ってはいないのかもしれない。
たとえば『グラン・ブルー』という映画では、イタリア人役のジャン・レノが「マンマ以外のパスタを食べたら殺される」などと、母親のことを恐れているというシーンがあったけれど、家の中心にいて支配者みたいな存在だったのがマンマだったということなのだろう。そして、その『グラン・ブルー』はフランス人のリュック・ベッソンが撮った作品だから、これもイタリアに対する世間一般的なイメージからそんなシーンが生まれているとも言えるかもしれない。
ところがイタリア映画である『ドマーニ! 愛のことづて』のデリア(パオラ・コルテッレージ)は、そんなイメージとはまったく異なる母親となっている。家族の中心にいるのは旦那のイヴァーノ(ヴァレリオ・マスタンドレア)で、彼は当然のようにデリアに暴力を振るう。
冒頭では、朝起きてデリアが「おはよう」と挨拶をした途端に、先に目を覚ましていたイヴァーノに引っぱたかれることになるのだ。恐らく「関白宣言」の歌詞みたいに、「夫よりも先に起きろ」ということなのだろう。
それでもデリアは何事もなかったかのように身支度を整え、家族のための朝ごはんの準備をし始める。旦那の暴力はいつものことだからだ。旦那からは殴られ「無能」呼ばわりされ、介護が必要な舅にも奴隷のようにこき使われている。
家庭内の支配者どころか、一番酷い扱いを受けていると言っても過言ではないあり様なのだ。だから娘のマルチェッラ(ロマーナ・マッジョーラ・ベルガーノ)からは「お母さんのようにはなりたくない」と宣言されてしまうことになる。本作の主人公はそんなイタリアのお母さんということになる。

©2023 WILDSIDE S.r.l – VISION DISTRIBUTION S.p.A
悲劇なの? 喜劇なの?
イヴァーノはデリアに暴力を振るう。ただ、それをリアルにやってしまうとあまりに惨たらしくなってしまうからか、本作ではシリアスさを中和するような演出がなされている。イヴァーノの暴力はたとえばアルゼンチン・タンゴのような振付がなされたりもする。イヴァーノに振り回されるデリアは、暴力に晒されているのか踊っているのか曖昧になり、何となく笑えなくもないシーンになるというわけだ。
デリアは家庭内では結構酷い目に遭っているけれど、それに挫けずに前を向いている。印象的だったのは、デリアが家から出て街を歩いていく場面だ。デリアが颯爽と歩く姿を、カメラは横移動で追っていくのだ。
このシーンがことのほか印象的だったのは、実は狭い家の中から飛び出して、街に出た瞬間にスクリーンサイズが変わったかららしい。私自身はスクリーンサイズの変化には気づかなかったのだが、デリアが歩いていく姿が心地よいものに感じられたのは、視野が広がって風通しがよくなったように思えたからだったのかもしれない。

©2023 WILDSIDE S.r.l – VISION DISTRIBUTION S.p.A
デリアが前向きだということは、本作の原題にも表れている。本作の原題は「まだ明日(ドマーニ)がある」というもので、今は悪くても明日には何とかなるといった前向きさを感じさせるのだ。デリアがアメリカ駐留軍の兵士とのやり取りの中で、「デヴォアンナ(=私、行かなくちゃ)」という名前だと勘違いされるというネタも、デリアが常に前に進んでいることを示しているだろう。
それから印象的なカメラの横移動は後半にも用意されていて、後半ではデリアが街を駆け抜けていく。女性を主人公にしたモノクロ映画で横移動というのは、何となく『フランシス・ハ』を想起させる気がした。
『フランシス・ハ』ではデヴィッド・ボウイの曲に合わせて主人公が駆け抜けていった。本作のデリアが走っていく場面も同じようにノリのいい曲だった。『フランシス・ハ』の監督はノア・バームバックだけれど、脚本は主人公を演じたグレタ・ガーウィグだったわけで、女性のエンパワーメントについて描いたとも言える『バービー』を同時期に撮っているグレタ・ガーウィグのことを意識していたと言ったら強引過ぎるけれど、どこかで通じ合うものを感じなくもなかったのだ。

©2023 WILDSIDE S.r.l – VISION DISTRIBUTION S.p.A
オチで一気に……
そんなわけでそこかしこに光るものは感じたものの、途中まではなぜ本作がイタリアで大ヒットとなったのかという点では疑問に駆られてもいた。というのは、デリアの行動がラストに至るまでは、よく理解できなかったからかもしれない。
デリアは娘マルチェッラが成金息子と婚約したことを最初は喜ぶものの、その婚約をぶち壊すような裏工作をすることになる。これはかなり突飛な行動だろう。そして、デリアには誰かからの手紙が届くことになり、彼女は密かに家を飛び出す準備をし始めたようにも見える。
デリアはマルチェッラから「(家・旦那から)逃げればいいじゃない」と言われていたし、親密に言葉を交わす男性もいたわけで、観客としては彼女はすべてを捨てて逃げ出すつもりなのだと思えたのだ。しかしながら、これは意図的なミスリードだったことがラストで明らかになる。
後から振り返ってみれば、本作はオチありきの作品になっているし、オチに向ってすべてが計算されている。邦題の「愛のことづて」というのも、あからさまにミスリードになっているし、ラストで思ってもみなかった方向へと展開するところがキモなのだ。
それでもその意外な方向というのは、ある意味では真っ当な方向とも言える。旦那がDV野郎だからといって、別の男性に頼るようなやり方では結局は何も変わらないわけで、もっと根本的に物事を変えるための方策として、デリアが採った行動こそが最初の一歩になるということなのだろう。とにかくラストで一気に納得させられるところがあって、イタリアで大ヒットした理由も何となくわかる気がした。
ただ、上映館が少なくてアクセスしづらいのが難点かも……。
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