『デビルズ・バス』 救われるために

外国映画

監督・脚本は『グッドナイト・マミー』ヴェロニカ・フランツゼヴリン・フィアラ

本作はシッチェス・カタロニア国際映画祭では最優秀作品賞を獲得した。

物語

18世紀半ば オーストリア北部の小さな村。古くからの伝統が残るその村に嫁いだアグネスは、夫の育った世界とその住人達に馴染めず憂鬱な生活を送っていた。それだけでなく、彼らの無神経な言動や悍ましい儀式、何かの警告のように放置された腐乱死体など、日々異様な光景を目の当たりにして徐々に精神を蝕まれていくアグネス。極限状態に追い込まれ、現実と幻想の区別すらつかなくなった彼女を、やがて村人たちは狂人扱いするようになる。果たして、気が狂っているのはアグネスなのか、それとも村人たちなのか。やがてアグネスは、村から、この世界から自由になるために驚くべき行動にでる。

(公式サイトより抜粋)

時代は「暗黒の中世」?

本作の舞台となっているのは18世紀半ばのヨーロッパだ。時代としてはすでに中世からは抜け出ているはずだけれど、『デビルズ・バス』の村の描写を見ていると「暗黒の中世」と呼ばれるような時代に見えなくもない。

中世だって暗黒ばかりではなかったはずで、確かに結婚式の場面などは楽しい雰囲気もある。それでも村人たちが教会の鐘の音に合わせて仕事の手を止め、神に祈りを捧げるというミレー『晩鐘』という絵画にもあったような風景を見ていると、宗教の縛りが強い時代だったのだろうと感じさせる。

主人公のアグネス(アーニャ・プラシュク)は山を越えた隣村から、その小さな村へと嫁ぐことになったらしい。アグネスはそれなりに幸せな結婚をしたのだ。旦那のヴォルト(ダーヴィド・シャイト)もとても優しく接してくれるようで、彼は二人のために借金をして実家とは別の場所に家を買ってくれたらしい。そこで二人の結婚生活が始まることになる。

ヴォルトは「(家は広いから)子どもができても大丈夫」などと言っていたのだが、初夜の夜になぜかアグネスを抱こうとはしない。それがどういう意図なのかはよくわからない。とにかくアグネスも子どもを望んでいるふうだったのに、そういう次第だから当然ながら子どもができるわけもなく、嫁としては気まずい立場に置かれることになっていく。

©2024 Ulrich Seidl Filmproduktion, Heimatfilm, Coop99 Filmproduktion

鬱にもなるよ

18世紀半ばというのは、日本では江戸時代ということになる。先ほどは「中世みたい」と書いたけれど、アグネスの家で起きている嫁姑の問題は今と何ら変わらないようだ。

舞台となる村は貧しい場所なのかもしれない。村は共同で川で魚を獲る仕事をしていて、協力すれば粗末なパンが与えられる。それでも食糧は不足しているらしく、「パンをもうひとつくれ」とねだる人もいるほど飢えている状態らしい。

日本だって当時から提灯みたいなものはあったと思うのだけれど、アグネスの家にはそうしたランプのようなものもない。竈に火はあるけれど、ほかに手元を照らす場合は、長細い木の先を燃やし、それを口に咥えてランプ代わりにしている。ランプなんてものはぜいたく品で、貧しい一般家庭にはなかったということなのだろう。

そんな時代だから宗教の縛りもキツいということなのか、『デビルズ・バス』には神様の話がよく出てくる。近所に住んでいていつもアグネスの家事について文句を言っている姑は、何かと神様のことを言い出す。一種の脅しのようなものらしい。

ヴォルトは相変わらずアグネスのことを抱くこともなく、姑が何かと口出ししてくるわけで、アグネスとしては肩身が狭い。彼女は次第に居場所を失い、鬱状態へと追い込まれていくことになるのだ。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

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「デビルズ・バス」とは?

劇中ではまったく説明がなかった気がするけれど、タイトルの「デビルズ・バス」というのは、「悪魔の風呂」ということで、これは鬱のことを指す言葉なのだとか。

タイトルの意味を全然知らずに観ていたけれど、アグネスの様子を見ていれば、彼女が鬱という病に侵されていることは明らかだ。ただ、当時は鬱が病であるという認識はなく、一種の「悪魔憑き」みたいな扱いだったらしい。

だから周囲は無理解で、寝てばかりの状態のアグネスを姑は無理やり起こして仕事をさせようとするし、ヴォルトは「どうすればいいのか?」と困惑気味だ(「もともとお前のせいなんじゃないか?」と思わなくもないけれど)。

アグネスは一度は実家に戻ってしまい、それをヴォルトが無理やり取り戻しに来たりもするし、今度は逆にあまりに手に負えない事態になってしまい、実家に送り返すハメになったりする。そんなわけでアグネスがそんな状況から抜け出すためにはどうすればいいのかということになる。

©2024 Ulrich Seidl Filmproduktion, Heimatfilm, Coop99 Filmproduktion

宗教的タブー

キリスト教では自殺が禁止されている。これはなぜなのかは知らないけれど、自殺を推奨するような宗教があったとすれば、そちらのほうが問題だろう。生まれてきたからには、生きなければというのは、当たり前と言えば当たり前のことであり、自殺が褒められることは決してはないだろう。

もしかするとキリスト教でも最初は当たり前の戒めとして、自殺の禁止があったのかもしれない。しかし、その後どういうわけか「自殺すると救われない」ということになってしまった。そして、このことは信者にかなり徹底的に刷り込まれている。

劇中、その村でも自殺する男が出たけれど、彼の場合は奥さんが旦那を弔うことを望んだものの、周囲がそれを許さない。自殺した男は村のどこかに野ざらしにされ、埋葬したりすることも禁止されるのだ。自殺した人が救われないだけではなく、周囲としてはまるで大罪でも犯したかのように、自殺した者を忌み嫌っているようにすら見えてくる。

そんなわけで鬱状態に陥っているアグネスがその状況から抜け出すにはどうすればいいか? 自殺という選択肢は、敬虔な信者らしきアグネスにはないだろう。しかしながら、そんなアグネスが救われる唯一の方法というものが、冒頭のエピソードで示されていたのだ。

©2024 Ulrich Seidl Filmproduktion, Heimatfilm, Coop99 Filmproduktion

「代理自殺」とは?

それがある女性が子どもを滝壺に投げ落として殺してしまうエピソードだ。なぜその女性が子どもを殺さなければならなかったのか、その子どもは彼女自身の子どもだったのか否か、そのあたりは謎に包まれたまま、物語はアグネスの話へと移行する。

アグネスがやったこともこれと同じなのだ。アグネスはある少年を自らの手で殺すことになり、それから教会へと駆け込むことになる。こうした行為を「代理自殺」などと呼ぶらしい。つまりは自殺をしてしまうと救われることはないけれど、人を殺して死刑になれば話は別ということになるらしい。死刑になる前に罪を赦され、天国に行けるということになるのだ。ちなみに本作は裁判記録をもとにしていて、つまりは実話がもとになっているのだ。

冒頭の女性もアグネスも子どもを狙っていたのは、まだ罪を犯していない子どもならば、殺された側の子どもも絶対に天国に行けるからということらしい。

自殺を禁止するということは問題なかったのかもしれないけれど、そのための脅しがきつすぎたということだろうか。キリスト教だって人々を救うためにそういう教えを作ってきたということなのだろうけれど、その縛りが強すぎて余計な弊害が生まれてしまっている。

不思議だったのは、斬首されたアグネスの首から飛び出した血を、村人たちが喜び勇んで購入していたラストだ。その血を飲んだりするシーンはなかったけれど、どういうつもりでアグネスの血を欲しがるのだろうか。アグネスは弟が取ってきたと思しき冒頭の女性の指を大切に保管していたけれど、天国に行けると決まった人の物を持つことが縁起がいいとされていたということなのだろうか?

監督ヴェロニカ・フランツウルリヒ・ザイドルの奥様らしい。ウルリヒ・ザイドル作品の脚本は、いつもヴェロニカ・フランツが書いているのだとか。そして、共同で監督を務めているゼヴリン・フィアラはウルリヒ・ザイドルの甥っ子なんだとか。宗教に対する疑問がテーマとなっている点では、確かにウルリヒ・ザイドルの『パラダイス3部作 愛/神/希望』とつながるものがあった。

しかしながら、本作はただひたすらアグネスを追い込んでいくばかりといったところがあり、仕事終わりの金曜の夜に観るには、キツい題材だった。雲海に包まれるような村の風景は美しいのだけれど、そこで行われる人の営みは残酷なものがある。捌かれたヤギが磔みたいにされたり、子どもに対する仕打ちも直接的に描写していて禍々しいものがあった。それだけに重苦しさばかりが際立ってしまうところが難点だろうか。鬱病の状態なんてものはそんなものなのかもしれないけれど……。

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