原作は福田ますみのルポルタージュ『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』。
監督は『殺し屋1』などの三池崇史。
主演は『カラオケ行こ!』などの綾野剛。
物語
2003年。小学校教諭・薮下誠一(綾野剛)は、保護者・氷室律子(柴咲コウ)に児童・氷室拓翔への体罰で告発された。体罰とはものの言いようで、その内容は聞くに耐えない虐めだった。
これを嗅ぎつけた週刊春報の記者・鳴海三千彦(亀梨和也)が”実名報道”に踏み切る。
過激な言葉で飾られた記事は、瞬く間に世の中を震撼させ、薮下はマスコミの標的となった。誹謗中傷、裏切り、停職、壊れていく日常。次から次へと底なしの絶望が薮下をすり潰していく。
一方、律子を擁護する声は多く、”550人もの大弁護団”が結成され、前代未聞の民事訴訟へと発展。誰もが律子側の勝利を切望し、確信していたのだが、法廷で薮下の口から語られたのは「すべて事実無根の”でっちあげ”」だという完全否認だった。
(公式サイトより抜粋)
すべてはでっちあげ?
タイトルが出る前に、氷室律子(柴咲コウ)の目線から薮下(綾野剛)という教師の姿が描かれる。その姿を見ていると、本当にそんな教師がいたら、絶対に自分の子供を学校に行かせることなどできないし、即教師を辞めさせるほかないと誰もが思うだろう。
薮下という教師は氷室拓翔(三浦綺羅)という児童に対し、体罰を行っていた。拓翔はそれによって血を流したりもするようなあり様だった。しかも薮下は拓翔に対して自殺を強要するような言葉まで発していたのだという。教師が児童をいじめているという状況だったのだ。
ところが裁判が始まると、薮下はすべては「でっちあげ」だと主張することになる。ここで本作のタイトルが示され、それ以降は視点が変わり、薮下の視点へと移行することになるのだ。そうなると最初に描かれていた薮下という教師のまったく別の姿が見えてくることになる。
この視点の移行によって物事の見え方が変わってくるところや、学校側の「事なかれ主義」などを見ていると、『怪物』ととてもよく似ている。というよりは、恐らく『怪物』のほうが本作の元となっている事件(福岡市「教師によるいじめ」事件)から影響を受けて脚本が書かれていたということだったのかもしれない。『でっちあげ 殺人教師と呼ばれた男』は、実際に起きた事件を元にした作品なのだ。

©2007 福田ますみ/新潮社 ©2025「でっちあげ」製作委員会
理不尽な状況に
実際に起きた事件だけに、その経緯を知っている人もいるのだろう。私はまったく知らなかったので、「こんな信じがたい事件が……」という驚きもあった。
「子供が先生から体罰を」という訴えを起こした律子という女性は、自分の視点の時は真っ当な女性に見えたけれど、視点が薮下のものに移行するタイトル以降では、異様な雰囲気を漂わせている。見開いた目は瞬きひとつせず、一体何を考えているのか見当がつかないのだ。
もちろん最初はどちらかが嘘をついているのか観客としてはよくわからないだろう。それでも律子の異様さは次第に明らかになっていくわけで、そうなってくると“殺人教師”に仕立て上げられてしまった薮下の不憫さが前面に出てくることになる。
そんな意味で、本作は一種のモンスターペアレントに人生を奪われることになる理不尽さを描く作品になっている。最初は律子の事実の曲解から始まり、次第にそれはありもしないことの捏造へとエスカレートする。
学校側の対応も悪かった。校長(光石研)は謝罪すれば事態は収まると、薮下に有無を言わせず頭を下げさせたため、体罰があったことを認めてしまう形になってしまったのだ。
律子はさらにそのネタを週刊誌に売り込むことになり、記者の鳴海(亀梨和也)はセンセーショナルな煽り文句と共に実名で報道したものだから、薮下はあっという間に人非人扱いされる存在となってしまう。
タイトル前に薮下が言っていたように、この事件はすべて「でっちあげ」であり、何の落ち度もないはずの教師が世間から激しいバッシングを受け、停職に追い込まれるまでになってしまう。そんな何とも胸糞悪い展開をしていくのだ。

©2007 福田ますみ/新潮社 ©2025「でっちあげ」製作委員会
正攻法で綾野剛の演技を
ただ、視点の移行は一度だけだし、律子という人の化けの皮がはがされることになるのもある程度は予想がつくだろう。それでも本作が観客の興味を惹きつけていたのは、薮下という教師を綾野剛が演じていたからかもしれない。
綾野剛は“殺人教師”と呼ばれる言語道断な教師から始まり、子供思いな優しい教師までを演じる。目がぎらついたイカれた教師と、寝耳に水の出来事におどおどして戸惑うばかりの教師の両方を演じるのだ。
実像の薮下は人のいい教師で、押しが弱いから上司である校長の言うことに逆らうことはできない。そんな姿がもどかしいのだが、綾野の細かい役作りがそんなキャラを説得力あるものにしている。
薮下はどん底まで追い詰められ、家族に迷惑はかけられないと離婚まで言い出す始末だ。しかし、家族は彼を信じて支えることになる。さらに裁判では弁護士の湯上谷(小林薫)の尽力もあり、薮下は自らの無実を主張できるようになっていく。
ラスト近くの被告人の陳述では、薮下は世間に対して切々と訴える。これまで言いたくても言えなかったことを静かに訴えるのだ。三池崇史監督の演出は普段ならもっと派手なことをやらかしそうな気もするけれど、本作は正攻法だ。
この場面は長回しで、ゆっくりと薮下の表情に迫っていく。薮下は最後まで子供のためを思った陳述をし、それが嘘ではないと聴衆たちにも信じられるような真摯なものを感じさせてくれるのだ。そんなわけで、本作は様々な綾野剛が見られる“綾野劇場”として、とても見応えがあったのだ。

©2007 福田ますみ/新潮社 ©2025「でっちあげ」製作委員会
誰を責めるべきなの?
本作は後半は法廷劇となる。律子たちが薮下に対して損害賠償を求める民事訴訟を起こしたからだ。それでも裁判の最中に、律子の嘘は呆気なくバレる。バレても律子がまったく動じない姿はホラーというよりは、それを通り越して笑えてくるくらいなのだが、律子はどこか病を抱えているようにも見えた(過去のエピソードなどから推測するに)。
ただ、そんなことを言ってられないのは律子を擁護してきた人たちだろう。律子のバックにいた大弁護士団は550人もいた。彼らは被害に遭ったとされる拓翔のことを思いやる優しさを持つ人たちなのだろう。しかしながら、薮下憎しのあまり、基本的な事実確認をしようとした人が誰もいなかったということになる。体罰に関しても、律子の発言だけを鵜呑みにして噴き上がってしまって、やるべきことをしていなかったのだ。
本来ならば裁判などの大事になる前に、誰かがきちんと調べれば済むことだったはずだ。正義漢ぶっていた週刊誌記者はもちろんのこと、校長もそうだし、その上にいた教育委員会もまったく機能していないことが明らかになるのだ。PTSDという診断書を書いた医者も同罪だし、色黒の律子の旦那(迫田孝也)も、律子からの話だけでえらい剣幕で学校に乗り込んできたけれど、自分の女房のことをまったく理解していなかったのだろう。
律子の嘘を責めることはできないだろう。律子としては大切な子供を守るためだったわけだから。それ以上に問題なのは、異論や反論を寄せ付けないような空気を生んでしまう世の中の状態そのものかもしれない。
三池監督は薮下の裁判での勝利が決まった場面に、定年退職で学校を去っていくと思しき校長の姿を挟み込んでいる。「校長が自分のすべきことをきちんとしていれば」という思いが込められた編集だったようにも感じられた。
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