監督・脚本は『宮本から君へ』の真利子哲也。
主演は『ドライブ・マイ・カー』の西島秀俊と、『薄氷の殺人』のグイ・ルンメイ。
物語
ニューヨークで暮らす日本人の賢治(西島秀俊)と、中華系アメリカ人の妻ジェーン(グイ・ルンメイ)は、仕事や育児、介護と日常に追われ、余裕のない日々を過ごしていた。ある日、幼い息子が誘拐され、殺人事件へと発展する。悲劇に翻弄される中で、口に出さずにいたお互いの本音や秘密が露呈し、夫婦間の溝が深まっていく。
ふたりが目指していたはずの“幸せな家族”は再生できるのか?
(公式サイトより抜粋)
アメリカの異邦人として
真利子哲也監督は『宮本から君へ』の後にアメリカに留学していたのだそうで、本作はそうした経験をもとに製作されたものと思われる。
外国で暮らし、そこの国の借り物の言葉で話し、生活する。そうした経験がないので詳しいことはわからないけれど、恐らくより一層日本人であるということを意識させられることになるのだろうし、自らのアイデンティティというものを考えさせられるのかもしれない。
主人公の賢治(西島秀俊)はニューヨークで暮らしている。奥さんのジェーン(グイ・ルンメイ)は中華系アメリカ人で、二人の共通の言葉は英語だ。賢治は大学の助教授で“廃墟”を研究していて、ジェーンは人形劇のアートディレクターの仕事をしている。ひとり息子のカイの世話は二人で協力して行っているものの、ジェーンは忙しい毎日に鬱憤が溜まっている部分もあるようだ。
ジェーンの両親は近くに住んでいて、雑貨店みたいなものを経営しているらしい。しかし父親は介護が必要な状況にあり、ジェーンはたまに店番を頼まれたりもする。ところがそんな時、強盗事件が発生し、ジェーンとカイは怖い目に遭うことになる。
中華系の店が強盗に襲われるというシーンは、ハリウッド作品を観ていると結構頻繁に起きている気もする。アジア人に対する何かしらの差別意識みたいなものがあるということなのだろう。そんな折、カイが誘拐されることになる。

©Roji Films, TOEI COMPANY, LTD.
誘拐事件の結末は?
賢治もジェーンも消えてしまったカイに慌てふためき、半狂乱になって探し回ることになる。とはいえ誘拐とは言いつつも、誰かが身代金を要求してきたわけではない。それでも刑事がやってきて事件として捜査が始まることになる。
この事件の犯人については、観客にはすぐに明らかになる。冒頭は賢治たちの家を覗くような視点から撮られていて、誰かが彼らを見ていたことは観客には示されている。つまりは本作は事件をミステリーとして見せようというのではないということになる。
そして、この誘拐事件は、奇妙な形で終わりを迎えることになる。なぜか犯人である男は死に、カイは解放されて見つかることになるのだ。犯人の男はなぜ死んだのか? 男を殺したのは誰なのか? 警察はそれを調べ始めることになるのだが、カイには犯人の男の血が付いていたこともあり、カイにも疑いがかけられることになり……。
※ 以下、ネタバレもあり! 結末にも触れているので要注意!!
何が賢治とジェーンに起こったか?
誘拐事件によって、賢治とジェーンの夫婦が隠していた秘密が明らかになってくる。事件化したため警察が入って周囲を調べることになり、二人は嫌でもその秘密と向き合わざるを得なくなってくるのだ。
以下、ネタバレしてしまうと、カイの父親は賢治ではない。ジェーンにはかつて付き合っていた男がいて、カイの父親はその男ドニーなのだ。しかし、ドニーはジェーンに子どもができたことがわかると逃げ出し、その子どもの父親になる決意をしたのが賢治だったのだ。
そのドニーがカイを連れ去ったのだ。実はちょっと前に起きた強盗事件もドニーの仕業だったらしい。ジェーンも薄々ドニーの存在を感じていたし、賢治も防犯ビデオなどを確認し、ドニーの存在に気づくことになる。
ところがそのドニーは死体となって見つかることになる。そして、容疑者として疑われることになるカイ。そのカイを救うためなのか、賢治は突飛な行動に出ることになる。

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一体何が描かれているのか?
本作は一体何を描こうとしているのだろうか? 私には夫婦の不和という問題や、アメリカにおいて異邦人であることが、本作の結末にうまく結びついているのかどうかがよくわからなかった。
ここで本作の結末について明らかにしてしまうと、ラストで観客に示されるのは、実はドニーが自殺したという事実だった。この結末から本作を振り返ると、本作は「エロス」と「タナトス」の話だったようにも感じられた。
真利子哲也監督の『ディストラクション・ベイビーズ』や『宮本から君へ』は暴力的で自暴自棄に見えなくもなかったけれど、何だかんだで結局は生きようとする力に溢れていたように思える。つまりは「エロス」ということになる。その裏面であり、「タナトス」の側面を描こうとしたのが本作だったのかもしれない。
これに関して参考になるのは、真利子監督の中編『NINIFUNI』だろう。この中編の主人公は強盗傷害事件を起こすものの、その後、なぜか海辺で自殺することになる。この亡くなった主人公の近くで、たまたまアイドル(ももクロ)がMVの撮影をしているというシーンが印象的に捉えられている。「生」と「死」という正反対なものがひとつの場面に収まることになるのだ。
このタイトル「NINIFUNI」というのは仏教用語なのだそうだ。漢字で書けば「而二不二」となる。「而二」というのは、一つのものを二つの側面から見ることで、「不二」というのは、本質は一つであるということになる。つまりは「二つであって二つではない」ということになる。その意味からすれば、「生」と「死」というものも、「二つであって二つではない」ということになる。『Dear Stranger/ディア・ストレンジャー』という作品も、そんな考えから誕生したのかもしれない。

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廃墟と人形劇の意味
賢治が大学で研究しているのは“廃墟”だ。賢治はかつて日本で大震災に遭遇した過去がある。それによって母親を喪ったりもしたらしいのだが、賢治はどこかで“廃墟”に魅せられているところがある。
“廃墟”という日本語は、静的で「死」を思わせる。一方で“ruin”という英語は、「崩れゆく」といった動的なもので「生」を思わせる。そんなふうに賢治は解釈する。それでも賢治は“廃墟”に「死」を見出しているように見える。
それに対して、ジェーンの仕事は人形劇だ。人形劇は当然ながらライヴ(live)で行われる劇であって、「生」というものを感じさせる。ジェーンが扱うことになる人形は単なる物体でしかないけれど、それを人が操ることでまるで生きているようにも見えてくる。
つまりは本作では“廃墟”には「死」のイメージがあてがわれ、その反対に人形劇には「生」のイメージが割り当てられている。ただ、先ほどの「而二不二」ではないけれど、「生」と「死」は「二つであって二つではない」とも言える。
賢治が廃墟となった劇場の中で拳銃を発砲すると、その火花で一瞬垣間見えるのはジェーンが操っていた人形の姿だった。そして、自殺でも考えているかのように街を彷徨い歩く賢治を引き留めるのも、人形の幻影だった。
本作のドニーの自殺の理由は謎だ。しかし、本作が「エロス」と「タナトス」、「生」と「死」というものを描こうとしていたとすれば、何となくわからないでもないのかもしれない。そして、賢治は「死」のイメージに惹かれつつあったけれど、最終的には人形劇が示す「生」のイメージに引き留められる形で、結末を迎えることになったということだろうか?
かなり抽象的で強引な解釈だけれど、そんな映画だったようにも思えた。ただ、これに関しては真利子監督自身も自覚的なのか、賢治の出版記念講演会において、日本人の屈折した心情を洩らしつつも、それに対しての会場からの反応として「抽象的過ぎるだろう」などと野次を入れている(その客は会場からつまみ出されることになるけれど)。そこが本作の弱点だとは意識しているのかもしれない。それでも作りたいという意欲が勝ったということなのだろうか?
本作は主演が西島秀俊であり、古い車が出てきて、交通事故が起きたりするわけで、どうにも『ドライブ・マイ・カー』を思わせる。本作にも手話を操る人が出てくるのは、『ドライブ・マイ・カー』を意識してのことなのだろうか?
グイ・ルンメイは『薄氷の殺人』などの謎めいた女ではなく、仕事と育児に疲れた女性を演じている。人形との一人芝居が印象的だった。彼女を苦しめている人形が示しているのは旦那である賢治のことだったのか、あるいはドニーのことだったのだろうか?
何だか疑問ばかりが浮かんでくる作品となっていて、まだ咀嚼できていない部分もある気もする。もう一度観ても、それが解消するのかどうかもまた疑問ではあるけれど……。





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