監督・脚本は『リトル・ジョー』などのジェシカ・ハウスナー。
主演は『ベルイマン島にて』などのミア・ワシコウスカ。
物語
名門校に赴任してきた栄養学の教師ノヴァクは【意識的な食事/conscious eating】という「少食は健康的であり、社会の束縛から自分を解放することができる」食事法を生徒たちに説く。親たちが気付き始めた頃には時すでに遅く、生徒たちはその教えにのめり込んでいき、「クラブゼロ」と呼ばれる謎のクラブに参加することになる。
栄養学の教師が導くのは、幸福か、破滅か――
(公式サイトより抜粋)
“意識高い系”の人はどうぞ
映画が始まる前の注意事項として「本作には行動統制と摂食障害に関する描写があります」と断り書きがある。「そういうのが嫌いな人はお気をつけください」というわけだが、確かにワンシーンかなりおぞましい箇所がある。たとえば暴力的な描写とか、ゴア表現なんかは映画の嘘としてあまり気にならないのだけれど、本作のそれはそうではないから強烈だった。これだけではどんなふうにおぞましいかわからないけれど、食欲が失せることになるのは間違いなさそうだ。
これは本作のテーマとも関わってくるわけで、必要なシーンだったのだろう。とはいえ、本作の主人公であるノヴァク先生(ミア・ワシコウスカ)が教えるのはあくまでも栄養学であり、別に食欲をなくさせてダイエットさせようというわけではない。あくまでも前向きな食事法ということになる。
彼女が言うには、「少食は健康的であり、社会の束縛から自分を解放することができる」ということになる。これだけだと何のことだかよくわからないし、特段響くものも感じられないのだが、“意識高い系”の人にとってはそれが魅力的なものに見えてくるらしい。
舞台となっているのは公立学校とは異なる、裕福な家庭の子女たちが通う名門校だ。ノヴァク先生の栄養学の学生たちは意識高い系の子どもたちも多く、その講義を取った動機として、地球環境への配慮や、自制心への関心を挙げたり、マインドフルネスと関連づけている者もいる。ダイエットとか奨学金のためという正直な子もいるけれど、意識高い系だからこそノヴァク先生の教えに興味を抱いたということなのだ。
「意識的な食事」とは?
ノヴァク先生の教えは段階的に深まっていく。最初は少食から始まる。「意識的な食事(conscious eating)」というもので、食べることに集中するのだ。これは確かにマインドフルネスという考え方によく似ている。深呼吸して食べるものと自分だけの世界を作り、少量の物をゆっくりと食べる。時間をかけることで満腹中枢が刺激され、少量でも満足することができる。
このレベルは常識の範囲内なのかもしれないけれど、ノヴァク先生の教えはさらに先へ行く。オートファジーという考え方だ。長期間食べ物を食べないと、体が自浄作用を発動させ、細胞が老廃物を除去して自ら再利用を始めるのだという。
ノヴァク先生の教えはそれにも満足せずに、さらに過激になっていく。そして、最終的には「食べないこと」に行き着くことになるのだ。彼女によれば、人間は食べなくても生きていけるのだとか。食べることは強制されるべきではないというのだ。
かなり極端な方法論なのだが、ノヴァク先生曰く、これはすでに実証されているもので、世界には「クラブゼロ」という食べないことを実践している秘密の団体があるのだという。ノヴァク先生はその「クラブゼロ」の会員なのだ。
「不食」の実践
このノヴァク先生の方法論は映画の中だけの話ではなく、実際にそれを実践している人もいるらしい。日本語では「不食」というキーワードで検索すると、そうした実体験を語った本がいくつも出てくる。そして、意外と多くの人が関心を持っていることもわかる。
有名どころでは、俳優の榎木孝明が『30日間、食べることやめてみました』という本を出している。この本は一時ワイドショーなどでも話題になっていた本だ。榎木孝明が言うには、「不食」というのはまったく食べないというわけでないないらしい。
「不食」とは「断食」でも「絶食」でもありません。「断」や「絶」は我慢や修行を強いるイメージがありますが、「不食」は不要、つまり要らないというある種の次元を超えた発想です。そのコンセプトは「人は食べなくても生きていけるが、人生を楽しむ為の食は大いに結構である」と云うものです。決して食べない事を推奨したり、食文化を否定するものではありません。
(榎木孝明のFacebookからの引用)
「不食」を実践する人は、「食べなくてはならない」という考え方を変えるということらしい。今の価値観を変えてみようということなのだろう。本作の劇中でも「信念が大切」と言われているのもそういう意味なのだろう。
とはいえ、ごく一般的にはわざわざそういうことをする理由はないかもしれない(食べるためのお金がないというならば別だが)。余程の意識高い系の人でもない限り、なぜ「不食」を選ばなければならないのかということになる。
テレビ番組でも雑誌でもネットでも、その多くはグルメ情報を扱っていて、多くの人にとっては食べることが楽しみであることは間違いないだろう。そうでなければ誰も食べ過ぎたりすることもなく、肥満を心配することもない。
「不食」というのはその楽しみを否定するわけわけだから、なかなかハードルが高いと言えるわけだ。その楽しみ以上の付加価値がなければ、わざわざ「不食」を選ぶ必要はどこにもないのだ。
だから劇中でも栄養学の講義を受ける人は次第に減っていく。ノヴァク先生の教えが先鋭化してくると、さすがについていけない生徒が出てくるのだ。ただ、その一方で周囲からの同調圧力もあって、最初は疑問を抱いていても次第にグループに巻き込まれていくベン(サミュエル・D・アンダーソン)のような生徒もいる。
ノヴァク先生は食べることは強制ではないと言いつつも、結局は自分がお勧めする「食べないこと」をクラブの生徒たちに強制していく形になっているのだ。これは言わば洗脳ということになる。
ここには仲間意識も働いているのだろう。ベンには気に入っていた女の子エルサ(クセニア・デブリン)がいて、彼女はノヴァク先生に心酔している。そんな彼女と仲間になるには、自分も彼女と一緒の考えになるしかないということになる。そして、自分たちだけが特別だという意識が、さらに仲間意識を強めることになるというわけだ。これが意識高い系の人にとっての付加価値となるのだ。
※ 以下、ネタバレもあり! 結末にも触れているので要注意!!
衣装の色が健康状態を
『クラブゼロ』の画づくりはなかなか面白い。生徒たちの制服はイエローグリーンの華やかな色合いだし、ノヴァク先生もいつも派手な色合いのポロシャツを着ていて、見た目がとても華やかなのだ。美術ではなぜか日本の障子を思わせるものがあったりするし、寿司が出てきたりもするから、ジェシカ・ハウスナー監督は日本びいきでもあるのかもしれない。
ノヴァク先生は「不食」を実践していて、自分が販売しているダイエット茶を口にするシーンはあったけれど、劇中では一度も物を口にしない。それでも彼女はとても健康的に見える。
それというのも衣装が派手な色合いだからということもあるのだろう。彼女のポロシャツは身体にピッタリで、ミア・ワシコウスカのムチムチさ加減もあって、生徒たちはノヴァク先生の実践が素晴らしいものであると信じてしまうことになるのだろう。
ところがラスト近くになると映画のビジュアルも一変する。ノヴァク先生は一番の信奉者であるフレッド(ルーク・バーカー)との個人的な付き合いがバレ、彼女は学校を追われることになるのだ。
ノヴァクは学校外で彼女を信じる生徒たちと再会する。そこでは全員がなぜか黒を基調にした衣装を着ていて、ノヴァクの顔もとても青ざめて見えるのだ。そして、それは悲劇的な結末を呼び込むことになるというわけだ。
本作は映像的にはなかなか面白い。ビビットな色使いで登場人物の健康状態を示したり、生徒の部屋の意匠も見栄えがする。さらには打楽器の劇伴や、妙な呼吸法で派手にサスペンスを盛り上げていく(ちょっとやり過ぎかもしれないけれど)。しかしながら、物語全体はかなり単調だったし、ノヴァク先生の思想と結末がうまく結びついていかないように思えたのだ。
結末と思想の齟齬
本作ではノヴァク先生は基本的に生徒の前に登場するばかりで、彼女のプライヴェートの部分はごくわずかしか描かれない。だからノヴァク先生が何を思って生徒を洗脳しているのかは謎めいている。
しかしながら監督がインタビューでも語っているように、「ノヴァクは完全に自分の教義を信じていて、子どもたちのためにも良いことだと心から思っている」という設定だ。「クラブゼロ」の教えを信じているからこそ、「不食」を生徒たちに勧めているということになる。
だとすると結末において、ノヴァク先生が生徒たちを連れて自殺することがよくわからないのだ。この結末は「クラブゼロ」がやり過ぎて間違いが生じてしまったなどというものではない。そもそもの思想からして別のものになってしまっているのだ。
ごく一般的な考えでは「食べなくては生きていけない」ということになる。しかし、「グラブゼロ」ではそれは否定される。「食べなくても生きていける」ということになるわけだ。しかしながらそれは「食べることは強制ではない」というだけで、絶食してあの世へ向かいましょうということではないはずだ。
「不食」を実践している人が本作を観たら、どんなふうに感じるのだろうか? 「不食」というものの考え方をまったく理解していないとすら感じるんじゃないだろうか。
別に特段「不食」の立場に味方するわけではないし、私自身はそれをまったく理解できないけれど、ノヴァクをそういう立場に設定しておきながらもなぜあの結末になるのかがよくわからなかったのだ。最終的にはごく一般的な考えに基づいて「食べなくては生きていけない」という方向になってしまっているからだ。
ノヴァク先生はラグナ(フローレンス・ベイカー)という生徒から「先生が生徒を必要としている」とも指摘されていた。それがフレッドとの関係につながってくるわけだけれど、ノヴァク先生がなぜ生徒を必要としているのかは見えてこなかったのだ。単にハメルーンの笛吹き男の話と絡めたかっただけなんじゃないだろうか。
そんな点でビジュアルばかりが目立ち、さらには件のシーンのおぞましさだけが印象に残る作品になってしまっている気がする。
コメント