監督は『白鍵と黒鍵の間に』の冨永昌敬。
脚本は『そばかす』のアサダアツシ。
主演は『嗤う蟲』の深川麻衣。
物語
京都の老舗扇子店の長男と結婚し、東京からやってきたフリーライターのまどかは、数百年の歴史を誇る老舗の暮らしぶりをコミックエッセイにしようと、義実家や街の女将さんたちの取材を始める。ところが、「本音と建前」の文化を甘く見ていたせいで、気づけば女将さんたちの怒りを買ってしまう。猛省したまどかは、京都の正しき伝道師になるべく努力するが、事態は街中を巻き込んで思わぬ方向に──。
(公式サイトより抜粋)
主役は京都?
タイトルの「ぶぶ漬けどうどす」という言葉は、そのまま受け取れば「お茶漬けどうですか」という意味になる。ところが京都ではこれば別の意味を持ってくるらしい。この言葉は、早く帰って欲しい客に向って言う言葉なんだとか。
ほかにも似たようなものがあって、劇中には出てこないけれど「箒を逆さに立てて手ぬぐいをかける」というものもある(昔、テレビドラマで見た)。帰って欲しいのに、それを直接言わずに「別の方法で」ということらしい。京都ならでは奥ゆかしさということなのだろうか。
これによってその客は自分が迷惑になっていることを悟るということなんだろうか? もし相手が京都の人でないならば、その真意を知らないわけで意味をなさないような気もするし、相手が京都の人ならば直接「帰れ」と言っても同じという気もするし、不思議といえば不思議な風習だ。
とにかく京都にはほかの場所にはない独自のものがあるらしい。劇中では京都では毎月1日と15日に赤飯を食べるということになっていた。近所の店の人がやってきてわざわざ赤飯を配って歩いているのだ。しょっちゅう食べているものだから、京都の人は赤飯に飽き飽きしているのだとか。それでもなぜそんな風習があるのかは誰も知らないらしい。
実際に「ぶぶ漬けどうどす」という言葉が使われるかどうかはあやしいらしいけれど、なぜか京都には独特なものがあるということで、そういう話が都市伝説的に広まっている。本作は、そんな「ヨソさん」には不思議な京都が舞台で、それをシニカルに笑うといった作品になっている。

©2025「ぶぶ漬けどうどす」製作委員会
「本音と建前」の京都
「本音と建前」というのは日本中どこでもありそうだけれど、京都はそれが強いのだろうか? たとえば隣の大阪なら、うまく笑いに紛らせながらズケズケと「本音」を言いそうではある(これも関西のことを知らない人の勝手なイメージだけれど)。それに対して京都の人は、「本音」は隠してニコニコしているけれど、腹の中で何を考えているのかよくわからない。そんなイメージがごく一般的にはあるのだろう。劇中でも女将さんたちの豹変ぶりが怖かった。
主人公のまどか(深川麻衣)はコミックエッセイを書いている。彼女は原作者のようなもので、漫画は安西(小野寺ずる)という相方の女性が担当している。まどかはコミックエッセイで生きていきたいらしく、京都の老舗を題材にした連載に賭けているところがある。だから、まどかは相手の迷惑も考えずにかなり積極的に取材している。
旦那の実家である老舗扇子店の女将(室井滋)は、嫁であるまどかをほかの女将さんたち紹介してくれる。その女将さんたちも最初はまどかに付き合ってくれるのだが、結局は体よくあしらわれている。ところがまどかがテレビで勝手に宣伝めいたことをしてしまったことで、事情が変わってくる。女将さんたちは血相を変えてまどかに怒りを露わにすることになるのだ。

©2025「ぶぶ漬けどうどす」製作委員会
京都の不文律
ただ、女将さんたちの怒りはヨソさんにはよくわからないところがある。老舗料亭の女将・竹田(片岡礼子)が言うところでは自分のところだけが目立つと、周囲に申し訳が立たないということらしい。
それから洛外に住む女将さんは、彼女たちの集まりをまどかが「洛中女将さん会」と名付けたのが気に入らなかったらしい。京都人にとっては「洛中」と「洛外」の差は重要な意味を持ってくるらしいのだ。
どちらの怒りもヨソさんにはどうでもいいことに思えるけれど、京都人にとってはそうではないのだ。そのあたりがヨソさんが京都に戸惑うところだ。京都には独自の不文律があるのだが、それは普段はわからない。それでもある閾値を超えると、唐突にその不文律が顔を見せることになるのだ。
まどかはそれから京都の不文律を竹田女将から学ぼうとする。実はまどかは旦那(大友律)に浮気されていたことが発覚し、ますますコミックエッセイに賭けるつもりになっていたのだ。そこになぜか義母が家を売り払うという話が持ち上がり、まどかは老舗という京都の顔を守るために奔走することに……。
ヨソさんの狂気
まどかはもともと京都の「本音と建前」を知らない。だからニコニコしている女将さんたちの言葉を素直に受け取り、傍迷惑な存在になっている。それがさらに京都を守るという使命感みたいなものに駆られるようになりエスカレートする。そこが面白いところだ。
実は『ぶぶ漬けどうどす』は、最初はヨソさんであるまどかが京都にやってきて怖い目に遭うという話だったようだ。京都は田舎ではないのだろうが、「田舎ホラー」のような趣きだったのだ。そうなると深川麻衣主演の『嗤う蟲』あたりを思わせることになる。
ちなみに本作には『嗤う蟲』で夫婦役だった若葉竜也も顔を出している。早口でまくし立てる奇妙な大学教授という役で、まどかのコミックエッセイのファンとして、まどかを応援しているのだ。
『嗤う蟲』の場合は「田舎恐るべし」という話だったけれど、本作ももとは「京都恐るべし」というホラーになるはずだったらしい。ところがそこからスタートして、いつの間にか「ヨソさんのほうが恐ろしい」というコメディに変化していったらしい。このあたりの事情は公式サイトの冨永昌敬監督のエッセイに書かれている。

©2025「ぶぶ漬けどうどす」製作委員会
古いことはいいことか?
まどかは京都の老舗を守ることは、京都の顔を守ることだと思い込んでいる。これは竹田女将が「建前」として言ったことだったのだろう。しかし、まどかはそれを真に受け、京都を守るためにと家の売買を阻止しようと奔走する。
いい迷惑なのは義母から仕事を請け負っただけの不動産屋(豊原功補)だろう。コミックエッセイに散々悪口を描かれて、その仕事から手を引かざるを得なくなる。それによって義母も家の売買を諦めざるを得なくなってしまう。
義母は「建前」ではキレイごとを言っていたけれど、未だに竈で米を炊くなんてことは面倒なのだ(大きなしゃもじでかき混ぜている釜のご飯はとても美味しそうだったけれど)。空調の行き届いたマンションで、炊飯器で炊いた米を食べたほうが、快適に暮らせるに決まっているということらしい。
ところがまどかはそんな義母の本音を知らずに余計なことを仕出かしてしまう。京都に勝手な幻想みたいなものを押しつけているのは、ヨソさんなのかもしれないのだ。ラストで義母にお茶漬けを勧めるまどかは、本心から言っているのかあるいは? まどかの本心すらもよくわからなくなってくるというわけだ。
本作は、ちょっとだけ笑えて肩肘張らずに楽しめるコメディになっている。京都では何も変わらないというのが、大学教授の意見だった。琵琶湖に石を投げ入れても「まったく何も変わらないでしょう?」というわけだ(実際やってみるとちょっと変わっていたけれど)。
古臭いことはいいことだろうか。そういうこともあるだろうし、そうじゃないこともあるかもしれない。本作の終わり方はとてもあっさりしていて潔かった。というのは本作では、まどかの「ぶぶ漬けどうどす」という台詞で暗転し、そのまま終わるからだ。長いエンドロールが一切なかったのが心地よい。
最近は延々続くエンドロールにうんざりすることもあるけれど、昔の映画は最後に音楽が高鳴って「終」のマークが出たらそれで終わりという作品も多かったのだ。そういうところは昔の映画のいいところを狙っていたような気もした。
ラストにスタッフロールがないということは、最初にやっておかなければならないわけで、本作は冒頭のスタッフロールがちょっと長い。しかし、この冒頭は京都に出てきたまどかが、旦那の実家までの道中を描いていて無駄になってないし、それを彩る音楽がとても良かった。
この音楽はリズム・セクションが印象的で、チャカポコチャカポコやっているだけなのだけれど、本作ののんびりとした雰囲気にマッチしていた。イメージとしては『孤独のグルメ』の腹が空いた時の音楽みたいな感じで、それが本作全体を彩ることになる。
冨永監督も語るように、京都らしい場所は全然出てこないけれど、深川麻衣が様々な着物姿で登場してくるのも見どころかも。それから個性的な劇中マンガも描いているという小野寺ずるという役者さんもちょっとおかしい。
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