監督・脚本は『葬式のメンバー』のペク・スンビン。
原題「So Long, See You Tomorrow」。
物語
1995年、テグ。不仲な両親や学校でいじめられる日々に鬱憤を募らせていたドンジュンは、カリスマ性溢れる男友達のカンヒャンに恋をした。しかし、彼との穏やかな日常は思いがけない事件で終わりを迎え、カンヒャンはテグを去ってしまう。想いを言葉にできず、後悔を抱えたまま大人になったドンジュンは、不幸で惨めだと感じる人生を消化しながら、ふと思う——「もしあの時、別の選択をしていれば…?」 テグで高校教師になる運命、ソウルで大学教授になる運命、プサンで父親になる運命。3つの異なる2020年秋を生きるドンジュンは、足りない何かを探し続け、やがて本当の自分を見つけて行く——。
(公式サイトより抜粋)
パラレルワールドもの
このやけに長ったらしい邦題が本作のすべてを示している。「3つの“もしも”の世界」を描く“パラレルワールドもの”ということだ。原題は「So Long, See You Tomorrow」というもので、意味としては「さようなら、また明日」ということになるのだが、劇中にも登場する実在する小説のことでもあるらしい(作者の名前は変えられていた気もする)。
ただ、この小説についての言及はほとんどなかったし、日本では翻訳されてもいないわけで、ほとんど誰も知らないだろう。そんな小説のタイトルをつけてもどんな映画なのかはさっぱりわからないということで、すべてを説明しようとして出来上がったのがこの邦題なのだろう。確かにこのタイトルならば、パラレルワールドについて興味がある人なら観てみようと思うかもしれない。私自身もそのひとりと言える。
主人公のドンジュンの後悔は、ある人物との別れにある。学生時代のドンジュンはいじめられっ子だ。それでも彼にはカンヒャンという親友がいる。カンヒャンはカナダで生まれたというちょっとませた青年なのだが、ドンジュンとは同じ団地で家族同然に育ったのだ。
ところがこのカンヒャンは家庭内で問題を抱えていて、そのトラブルもあって事件を起こすことになり、テグの街を去ることになるのだ。ドンジュンはカンヒャンに憧れている。どんな人になりたいかと言えば、カンヒャンになりたい。そんなふうに思える憧れの存在がカンヒャンだったのだ。
そんなカンヒャンがテグを去る時、ドンジュンはそれを知りつつも何もすることができない。彼はそのまま去って行き、ドンジュンはテグに残ることになる。そのことがドンジュンにとっての最大の後悔ということになる。「あの時、こうしていれば……」と悔やむことは、誰にでもひとつやふたつあるだろう。『あの時、愛を伝えられなかった僕の、3つの“もしも”の世界。』は、そんな後悔についての物語なのだ。

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後悔に対する対処法
“パラレルワールドもの”の映画は色々とあるけれど、このブログにレビューをアップした作品としては『ジュリア(s)』がそれに該当するだろう。『ジュリア(s)』はいくつかのパラレルワールドを同時並行的に描いた作品で、なかなか楽しめる作品だった。それでも気になったことがあって、それがパラレルワールドというフィクションを生み出してしまうような、人の後悔の念が描かれていなかったということだ。
それに関しては『3つの“もしも”の世界』は、きちんとその後悔の時を丁寧に示している。通常は「後悔」というものは、どうしようもないものだろう。「後悔先に立たず」というわけで、今さらどうすることもできないからこそ「後悔」と言うわけだから。ただ、映画というフィクションでは「後悔」というものをなかったことにすることができる。
それにはたとえばタイムトラベルというやり方もあるだろう。時間を遡って後悔の時をもう一度やり直すのだ。本作のようなパラレルワールドも後悔に対処する方法のひとつなのだろう。ドンジュンは実際にはカンヒャンとの別れの時、何もできなかった。しかし、もしかすると別世界では、そうではないドンジュンがいるかもしれない。きちんとした選択をしたドンジュンの世界では、ドンジュンは別の人生を歩むことになるというわけだ。

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3つの“もしも”の世界
ドンジュンの最大の後悔の時は、カンヒャン(シン・ジュヒョブ)との別れにあることは上述した。そこに焦点を合わせればもっとスッキリしたのかもしれないけれど、本作はそれ以外の家族とのエピソードや性的指向に関する話題なども絡まってくる。それらを丁寧に描くために144分というなかなかの長尺になってしまっているし、様々なエピソードを盛り込み過ぎて焦点がぼやけているようにも思えた。
さらに、ぼやけているのは焦点だけではなく、章分けも酷くわかりづらいものがあった。本作は3つのパラレルワールドを描くわけで、3つの章に分かれることになる。最初にドンジュンの後悔の時が描かれた後に、一気に「2020年秋」へと飛び、それが三度繰り返されるのだ。
一応、この「2020年秋」という字幕が出るところが区切りとなる。第1章の始まりはわかりやすい。1995年の学生時代のドンジュン(ホン・サビン)から、40代のドンジュン(シム・ヒソブ)に変わるからだ。しかし、第2章も「2020年秋」という字幕が出るだけで、同じ40代のドンジュンが登場してくるだけだから、私は最初は新しい章が始ったことに気づかないくらいだった。
というのは、本作は基本的にはドンジュンが誰かと対話しているばかりだからかもしれない(そして、すべてを台詞で説明するから、酷く冗長にも感じた)。3つの章があっても、ドンジュンの対話の相手が変わるだけのようにも見えてしまうのだ。だから1章が終わったとしても、その終わりがハッキリしないほどぼんやりしている。
一応、舞台は変化する。第1章はテグで、第2章はソウル、第3章はプサンとなる。そして対話の相手も変化するし、細かい違いはもちろんある。それでも仕事はどれも似ている。第1章では高校教師で、第2章では大学教授、第3章でも似たようなことをしているから大きな差は感じられず、パラレルワールドごとの違いもぼんやりしているように思えたのだ。
※ 以下、ネタバレもあり!
成長物語か? 単なる並列関係か?
最終的にはドンジュンはカンヒャンとの別れの時をやり直すことになる。ドンジュンは彼に言えなかったことをきちんと伝えることができたのだ。それによってドンジュンは、一度はカンヒャンと離ればなれになっても、のちに再会することになるのだ。
カンヒャンはどの世界でも作家として成功を収めることになるけれど、第1章と第2章のドンジュンはカンヒャンの成功を知りつつも、彼に会おうとはしない。これらの世界のドンジュンは、後悔を抱えたままでカンヒャンに会わせる顔がないと考えていたのだろう。ところが第3章ではそれまでの後悔の念を克服して、カンヒャンと再会することになるのだ。
大きな流れとしては、章が進むごとにドンジュンが成長していき、最終的には憧れだったカンヒャンに再会できるまで自己に対する評価を改善していった話と思えなくもない。そんなふうに思えるのは、たとえば第1章ではテグという街から出なかったことを後悔していた高校教師だったドンジュンが、第2章では念願だった海外留学をして大学教授にまでなっているあたりからも読み取れるだろう。
本作はパラレルワールドと言いつつも、別世界に移行するごとに少しずつドンジュンが成長していく成長物語とも言えるのかもしれない。しかしながら、本作がドンジュンの成長を描いているのだとすると、何だかおかしなところがある。
第1章のドンジュンは、出会い系のアプリで男性と会おうとしている。ところがその相手は実は自分の教え子であることが判明する。その青年は多分ドンジュンのことが気になっていたのだろう。ところが第1章のドンジュンは、自己評価が著しく低く、彼からの好意もうまく受け止められなかったようだ。
第2章では、娘をひとりで育てている同年代の男性と知り合うことになる。この二人の関係はあくまでも教授と生徒という間柄のまま、親しい関係を築くことになる。そして、第2章のドンジュンは父親に対して、同性愛者であるということを認めるような告白をすることになる。
そして、第3章のドンジュンには、意外なことに息子がいることになっている。この息子との対話が第3章であり、ドンジュンはその第3章の最後にカンヒャンと再会することになるのだ。

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この変化をどう捉えればいいのだろうか? もし本作を成長物語として観るとすると、ドンジュンが異性愛者になったかのような第3章がよくわからないことになる。まさか同性愛者から異性愛者になることを成長なのだと考えているわけではないのだろうし、そのあたりで何だか収まりが悪い気がしたのだ。
あるいは本作は成長物語ではなく、単にパラレルワールドが並列的に描かれただけのものとして観ることも可能だろう。その場合は、第1章と第2章のドンジュンはそれぞれ関わりはなく、第3章のドンジュンも同様に無関係ということになる。そうだとすれば、最初に登場したオリジナルのドンジュンが同性愛者だとしても、別世界のドンジュンとは無関係なわけで、別世界に異性愛者のドンジュンが居ても何もおかしくないことになる。
もちろんそんな設定もアリなのかもしれない。というか、パラレルワールドというものは最初からそんな設定なのかもしれない。しかしながら、そうだとするとオリジナル・ドンジュンは永遠に後悔を引きずって生きることになってしまうことになる。
本作のラストはドンジュンがカンヒャンと再会した感動の場面で終わる。このラストが感動的だったのは、最初に描かれた後悔を打ち消すことができたということがあるからだろう。その出発点がなければ、本作のラストには何の感動があるのかということになる。
本作のパラレルワールドが単に並列的に描かれているだけのものだとすれば、オリジナル・ドンジュンの後悔と別世界のドンジュンには何のつながりもないことになってしまう。そうなってくるとパラレルワールドという考えそのものがとても虚しいものにも思える。別世界の違う自分を想像して自分を慰めたとしても、結局、そんなふうに想像している自分は何も変わらないまま存在し続けることになるわけだから……。
本作は一応第3章をラストに置いているからハッピーエンドみたいに思えるけれど、これは一種の詐術みたいなものなのだろう。ラストは思わずホロリとしてしまったのだけれど、このラストに感動した観客は、うまく騙されているとも言えるのかもしれない。





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