『秋が来るとき』 人生の黄昏時に

外国映画

監督・脚本は『Summer of 85』フランソワ・オゾン

主演は『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』にも出ていたらしいエレーヌ・ヴァンサン。共演には『スイミング・プール』以来のオゾン作品に久しぶりに復帰したリュディビーヌ・サニエ

原題は「Quand vient l’automne」。

物語

80歳のミシェル。パリでの生活を終え、人生の秋から冬に変わる時期を自然豊かなブルゴーニュの田舎で一人暮らしをしている。秋の休暇を利用して訪れた娘と孫に彼女が振る舞ったキノコ料理を引き金に、それぞれの過去が浮き彫りになっていく。人生の最後を豊かに過ごすために、ミシェルはある秘密を守り抜く決意をする—。

(公式サイトより抜粋)

キノコ騒動は実体験

『秋が来るとき』のあるエピソードは、フランソワ・オゾンの実体験だとか。それは最初のほうに描かれるキノコ騒動のエピソードだ。

主人公のミシェル(エレーヌ・ヴァンサン)は休暇に娘と孫を迎えるために、近くの山で採れたキノコ料理を用意している。ところが、このキノコには毒が含まれていたらしく、たまたまひとりだけそのキノコ料理を食べることになった娘のヴァレリー(リュディヴィーヌ・サニエ)は食中毒で倒れるハメになるのだ。

このエピソードと同じようなことが、フランソワ・オゾンが子どもの頃にあったものらしい。子ども時代のフランソワ・オゾンは、その出来事が印象に残っていて、それを本作の最初のエピソードとして取り入れたのだ。

この騒動によってミシェルとヴァレリーの関係性が見えてくる。尤も、最初からヴァレリーは母親であるミシェルに対してとてもキツいのだ。その理由は後に明らかになるのだが、キノコ騒動の後、ヴァレリーは田舎で一緒に休暇を過ごすはずが、孫のルカを連れてパリに戻ってしまう。ミシェルとしては大好きな孫と引き離されることになってしまい、耐え難い苦痛を味わうことになるのだが……。

© 2024 – FOZ – FRANCE 2 CINEMA – PLAYTIME

母と娘の関係

辛いことがあったとき、女たちがすることは愚痴を言い合うことなのかもしれない。それによって何かが変わることもないのかもしれないけれど、それでも口に出すことでスッキリする部分もあるのだろう。ミシェルも親しい友人のマリー=クロード(ジョジアーヌ・バラスコ)を相手に、ヴァレリーの仕打ちの酷さを愚痴っていた。

子どもを産む動機というのは人それぞれなのだろうけど、親の思った通りに育ってくれることはあまりないのかもしれない。ミシェルとヴァレリーの関係もギスギスしたものがあるし、マリー=クロードの息子のヴァンサン(ピエール・ロタン)は刑務所から出てきたばかりという状態で、未だに母親としては心配が絶えないものらしい。だから二人は、共に子育てには失敗したなどと愚痴を言い合うことで、互いを慰めることになる。

子どもは親の思う通りに育ってくれないけれど、実は同じことは子どもの側からも言える。今では「親ガチャ」という言葉もあるように、子どもが好きな親を選べるわけではないからだ。結局はどっちも思う通りにはならないということらしい。

ヴァレリーが母親ミシェルのことを嫌っているのには理由があって、それはミシェルが若い頃に娼婦だったからだ。ヴァレリーがそのことでどんな辛い目に遭うことになったのかはわからないけれど、彼女としては自分の母親の過去が許せないらしいのだ。

※ 以下、ネタバレもあり!

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「罪と赦し」のテーマ

本作の冒頭では教会の司祭によるマリアのエピソードが語られている。フランソワ・オゾンはこのエピソードによって、「罪と赦し」というテーマを観客に意識させようとしたものらしい。「罪と赦し」というテーマについては、オゾン作品ではたとえば『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』などにも通じる部分があるかもしれない。

本作で対照的な人物として描かれているのが、母親ミシェルの過去を許すことができないヴァレリーと、そんなヴァレリーのミシェルに対する仕打ちを快く思わないヴァンサンだ。ヴァンサンの母親マリー=クロードも、ミシェルと同じ娼婦だったわけで、ヴァンサンは母親の過去を受け入れているということなのだろう。

ヴァンサンはミシェルの愚痴をたまたま聞いてしまい、お節介にもヴァレリーの態度を改めさせようとわざわざ説教に出向いたものらしい。ところがこの行為がトラブルを引き起こしてしまうことになる。

劇中ではその詳細が描かれることはない。ヴァンサンがヴァレリーの家で久しぶりの再会をしたところまでが描かれるだけで、その後、どんなことがあったのかはわからない。しかしその後に起きたことはヴァレリーの転落死ということになる。

ミシェルはそんなことは知らずに、娘の転落死を知ることになる。警察もヴァレリーの死を自殺と判断することになり、最終的にはドバイという遠い国にいる父親に代わって、ミシェルが孫のルカと一緒に暮らすことになるのだ。そして、ヴァンサンは父親の代わりのような役割を果たすことになっていく。

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守り抜いた秘密とは?

本作においてミシェルが最後まで隠し通そうとした秘密というのは、このヴァンサンに関わることだ。マリー=クロードは息子のヴァンサンから事情を聞いても、息子を再び刑務所へ送ることはできず、それを秘密にしてきた。しかしマリー=クロードはガンで死ぬ前に、ミシェルだけにはその秘密を打ち明けていた。

ミシェルは最初からヴァンサンに対しては同情的だった。だからその告白を聞いたときも、最初は驚いたものの、「良かれと思うことが大事」だとしてそれを受け入れることになる。そして、ミシェルは孫のルカとヴァンサンとで、疑似家族のような形で過ごしていくことになるのだ。その後に警察の疑いの目が向けられたときも、ミシェルは嘘をつき通すことになるし、ルカも詳しい事情は知らずにヴァンサンを守るような証言をすることになる。

この「良かれと思うことが大事」という言葉が本作のキーワードなのだろう。この言葉はミシェルが娼婦をしていた過去とも関わってくる。ミシェルがなぜその仕事を選んだのかはわからない。ただ、ミシェルとしても別に好き好んでそうしたわけではなさそうだ。彼女も娘のヴァレリーを育てるために必要に迫られ、そうするほかなかったということらしい。そうすることが「良い」と思ってやったことなのだ。ミシェルがヴァンサンに対して同情的だったのは、自分の過去を重ねているからなのだろう。

皮肉なのはミシェルが娼婦として生きたことは、娘のヴァレリーとの関係を壊すことになるし、ミシェルが良かれと思ってやったお節介も裏目に出てしまう。ミシェルは自分の過去とヴァンサンの今を重ねているからこそ、彼に対して同情的なのだ。

良かれと思ってやったことは非難すべきではない。これはミシェル自身に対する指摘でもあるし、ヴァンサンにも当てはまることになる。しかしながら本作は曖昧さも残している。最初のキノコ騒動のとき、ミシェルはもちろんおもてなしの料理を振舞ったつもりだったのだろう。

それでもミシェルは「故意ではなかった。そうでしょう?」と問われると、それに対してはっきりと否定することができないのだ。これはフロイトが言うところの「錯誤行為」みたいなものなのかもしれない。意識的には当然おもてなしの料理をするつもりだったわけだけれど、無意識の中では違うものが蠢いていた可能性も否定はできないということなのかもしれないのだ。

『秋が来るとき』は、ブルゴーニュ地方の“秋”が舞台となっている。これは同時に、人生の黄昏時たそがれどきという意味の“秋”ということでもある。「良かれと思うことが大事」ということも、結局はミシェルが自己を正当化する言葉とも思えるわけで、人はそんなふうにして自分の生きてきた過去を肯定しなければ穏やかには死ねないのかもしれない。

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