『アダムの原罪』 なぜ主人公はルシーなの?

外国映画

監督・脚本は『Playground/校庭』ローラ・ワンデル

プロデュースはベルギーの大先輩であるダルデンヌ兄弟。

主演は『ジュリアン』レア・ドリュッケール

原題は「L’Intérêt d’Adam」で、英題は「Adam’s Sake」。

物語

ある病院の小児科センターに、左腕を骨折したアダムという4歳の男の子が入院した。栄養失調で痩せこけたアダムは発育が遅れ、骨が脆くなっている。裁判所は移民のシングルマザー、レベッカに問題があるとし、彼女の面会を制限する命令を下した。自らもシングルマザーである看護師長のルシーは、息子と引き離され、親権を失うことを恐れるレベッカに寄り添おうとする。しかしレベッカの思いもよらない行動と病院システムの歪みによって、ルシーは次第に追いつめられていく……。

(公式サイトより抜粋)

小児科センター看護師長の1日

冒頭からカメラは主人公であるルシー(レア・ドリュッケール)の背中を追っていく。舞台は病院の小児科センターだ。ルシーはそこの看護師長で、彼女はセンター内を忙しなく動き回ることになる。カメラはそのルシーの姿を延々と追い続けることになるのだ。

このファーストカットを見ると、いかにもダルデンヌ兄弟風の撮り方になっている。というのも、本作のプロデュースにはダルデンヌ兄弟が参加しているということもあるのだろう。

本作は看護師の1日を追うということで、ちょっと前の『ナースコール』と被るところもある。『ナースコール』の場合は、看護師という仕事の過酷さを訴える作品だったが、『アダムの原罪』の場合、ルシーは助けるべき患者と病院や行政のルールとの狭間で葛藤することになるのだ。

ルシーは看護師長としてセンター内のすべての患者に目を配る立場にある。それでも、その日、ルシーが気にかけているのはアダム(ジュール・デルサール)という少年のことだ。アダムは栄養失調で骨折してセンターにやってきたらしい。そして、栄養失調の原因は母親のレベッカ(アナマリア・バルトロメイ)にある。レベッカはなぜかアダムに自分が与えるものしか食べさせないのだ。医師の説明によれば、レベッカは「自分が与えるもの以外は危険だ」とアダムを洗脳しているということになる。

このことはすでに問題になり、裁判所なども関わっている。アダムに対する虐待が疑われるということで、レベッカはアダムから引き離されそうになっているのだ。ただ、ルシーは二人の姿を見ていて、二人を引き離してしまうことはアダムのためにならないとも感じていて……。

ⓒDRAGONS FILMS – LES FILMS DU FLEUVE – LES FILMS DE PIERRE – LUNANIME – FRANCE 3 CINÉMA – BE TV & ORANGE – PROXIMUS – RTBF(TÉLÉVISION BELGE) – SHELTER PROD

患者とその親との関係

ルシーが扱うことになる患者はみな子どもたちだ。子どもたちはもちろんひとりでそこにやってきたわけではなく、当然ながら親が付き添っている。ところがその親たちは、みんながみんな子どもの心配をしているわけではなさそうだ。

劇中では、子どもが病院のベッドに寝ているのに、それに無関心な母親もいれば、父親の虐待でケガをして運ばれてくる子どももいる。移民の少年は親との関係が問題なのか、なぜか退院したがらない。

ルシーはそんな患者とその親との関係をいつも見ているわけで、患者を治療するということが彼女の仕事の中心ではあるけれど、それだけでは足りないと感じていたのだ。

アダムの問題はその母親であるレベッカにあることは誰にでも明らかだろう。レベッカがなぜアダムに病院食を食べさせないのかはよくわからない。しかしながら、レベッカはアダムを苦しませようとしているわけではない。レベッカはレベッカなりにアダムを愛していて、自分にはアダムしかいないと感じている。しかしその愛情は間違った方向へと彼女を導いてしまっているらしいのだ。

劇中で説明があったのかどうかはわからないけれど、レベッカは移民という設定らしい。そしてシングルマザーとしてアダムを育てている。異国での孤立した状態が、レベッカを精神的に追い込んでしまっているということなのかもしれない。

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行政のルールとアダムの命

原題や英題は「アダムのために」という意味合いになるのだとか(邦題はなぜ「原罪」などという言葉を持ち出したのだろうか)。センターやそこの看護師であるルシーの仕事の目的は、「アダムのために」、つまり「子どものために」ということであり、子どもの命を救うことにある。また、行政側としては裁判所の調査官みたいな役割が出てくるけれど、その役割の人が考えているのも「アダムのために」という点では同じだろう。

栄養失調になった子どもがいる。そのことだけを捉えれば、まともな食事を与えなかった母親を子どもから引き離すことが「子どものために」ということになるのだろう。

しかし現場でアダムとレベッカの姿を間近に見ているルシーは違う判断をする。アダムはレベッカという母親を必要としているし、レベッカ自身がアダムのことを必要としている。アダムを本当に助けたければ、アダムのことを洗脳してしまっているレベッカのことを治療しなければならないわけで、二人を引き離すことは別の問題を生じさせるだけだと考えているのだ。

行政側のルールに従えば、看護師であるルシーができることはほとんどない。アダムとレベッカは引き離され、もしかするとアダムはそれで回復するのかもしれないけれど、「自分のすべて」と言い切っていた子どもを奪われたレベッカはどうなるのか。ルシーが懸念しているのは、「アダムのために」というだけではなく、その先に「レベッカのために」ということをも考えているからなのだ。そして、ルシーは自分の役割を越える決心をする。

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なぜ主人公はルシーなの?

最初に「ダルデンヌ兄弟のような撮り方」と言ったけれど、本作はそれほど厳密にそれが適用されているわけではない。ダルデンヌ兄弟の場合、多くの作品はひとりの主人公をカメラが追い続けることになる。このスタイルでは主人公以外の視点は入ってこない。

本作の場合、ルシーという看護師が主人公なわけで、視点はルシーにある。基本的にはすべてがルシーの視点から描かれるわけだが、例外もある。途中でレベッカに視点が移動するところがあるのだ。レベッカがルシーの目を盗んで病院食を廃棄してしまう場面だ。

そもそも本作の場合、切羽詰まった状況にあるのはアダムとレベッカだろう。本作の主人公をレベッカにすることだって可能だったはずだ。本作で描かれている問題の当事者はアダムとレベッカであって、ルシーはその当事者ではないとも言えるからだ。

たとえばローラ・ワンデル監督の前作の『Playground/校庭』では、学校内でのいじめが描かれ、その当事者である子どもたちが主人公だった。だからとても痛々しいものがあったし、観ていてもキツい部分すらあった。

それに対して『アダムの原罪』の場合は、主人公のルシーはアダムの担当看護師とはいえ、当事者そのものではない。その点で逃げ場がないわけではないし、前作ほどの切迫感はなかったかもしれない。

とはいうものの、ラストを観ると、本作の主人公がルシーでなければならない理由もわかる気がした。ルシーはラストでレベッカを女性支援施設に連れていこうとする。レベッカは一度はそれを拒否するものの、最終的にはそれを受け入れたということだったのだろうと思う。

レベッカは行政のルールに従えば救えない人なのだろう。行政は「アダムのために」は支援をしてくれるけれど、その一方でその母親であるレベッカは切り捨ててしまう。レベッカのような人は行政のルールからはこぼれ落ちてしまうのだ。行政の支援の対象はあくまでも子どものほうであって、その親は対象外なのだ。

ルシーはそれでは不十分だと感じていたわけで、最後に自分に与えられた役割を越えてレベッカに関わることになる。もしかすると後になってそれが越権行為として問題になったりするのかもしれないけれど、ルシーとしてはそうせざるを得なかったのだ。あるいは、そんなふうに弱者に寄り添う人が居て欲しいという希望が込められているということかもしれない。

行政の対応が四角四面になりがちだということは、たとえば『わたしは、ダニエル・ブレイク』などでもそれに対する怒りも含めて描かれていた。かといって、本作のように親身になってくれる誰かの犠牲的な精神に頼るというのでは、問題の解決にはならない気もするけれど、それが現状ということなのかもしれない。

特筆すべきは、アダムを演じたジュール・デルサール少年の真に迫った演技だろうか。アダムは母親レベッカへの愛情と、命の危険との間で板挟みになっている。決定的な一言は、レベッカと調査官の視線の前で発される。アダムは「ママと一緒にいたい」と言うけれど、その後に「でも死にたくない」と付け加えるのだ。その時のアダムの視線の動きなんかを見ていると、演技というよりはアダムに成り切っているとしか思えなかった。

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