監督・脚本は『赤い雪 Red Snow』の甲斐さやか。
主演は『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』などの井浦新。
物語
ある最新技術を用いた延命治療が国家により推進されるようになった近未来。裕福な家庭で育った新次は妻との間に娘も生まれ理想的な家庭を築いていたが、重い病に冒され病院で療養している。手術を控えて不安にさいなまれる新次は、臨床心理士まほろの提案で自身の過去についての記憶をたどりはじめ、海辺で知りあった謎の女性や、幼い頃に母からかけられた言葉を思い出していく。記憶がよみがえったことでさらに不安を募らせた新次は、“それ”という存在に会わせてほしいとまほろに懇願。“それ”とは、上流階級の人間が病に冒された際に身代わりとして提供される、全く同じ見た目の“もう1人の自分”であった。
(『映画.com』より抜粋)
クローン技術は是か非か
『徒花-ADABANA-』はクローン技術が解禁された世界を描いている。現実世界では、様々な問題があることから、特に人間のクローンには歯止めをかけようという議論がされているというニュースをどこかで見た。ところが本作が描く近未来は、ウイルスなどで出生率が下がり、その技術がどうしても必要になったという設定だ。
劇中で詳しい説明はないのだが、クローン技術は一部の富裕層だけに許された権利らしい。その他の貧しい人たちはクローン技術の恩恵にあずかることはできない。ただ、本作で描かれるのはそうした格差の問題ではなく、クローン技術そのものの倫理的な問題ということになる。
クローンをどのように使うのかと言えば、オリジナルのスペアとしてということになる。ある施設で一部の富裕層のクローンを育てていて、必要時のために大切に管理されているのだ。権利のある人が病気などになった時には、臓器が必要ならばクローンから取り出した臓器を移植するし、手足の切断などの際にはそれをクローンから補充するということになる。
『徒花』では、クローンのことを“それ”と呼んでいる。クローンはあくまでもオリジナルの予備の部品ということであり、人間としての権利は認められていないということなのだろう。だから物のように“それ”と呼ばれるというわけだ。
物なのか人なのか
設定としては『わたしを離さないで』とよく似ている。異なる部分は『わたしを離さないで』がクローンの側から描かれたのに対し、『徒花』の場合はオリジナルの側に視点があるということだろう。
オリジナルからすればクローンは、自分の臓器のスペアを保管するためのただの容器ということになる。クローンがただの容器ならば、容器なりの扱いをすればいいのかもしれないのだが、本作ではクローンは施設内で大切に育てられている。
クローンは一生施設から出ることはないし、自分がクローンだということを理解し、それでも心穏やかに暮らしていくように教育されている。洗脳と言ってもいいのだろう。
そもそもクローンのことを“それ”と呼ばせているのは、“それ”が人間であることを知っているからこそなのだろう。人間を都合よく切り刻むことなど許されるわけもないわけで、「人間ではない」という嘘を信じさせるためにわざわざそんなふうに呼ばせるのだ。
クローンはなぜかオリジナルの一部の記憶をわざわざ共有したりもしている。このことも“それ”が人間であることを施設の側が知っているからだろう。施設ではクローンをある時は物のように扱い、ある時は人間のように丁重に扱おうとする。そんなふうにうまくコントロールし、不満分子が生じたりしないように管理しているということなのだろう。
オリジナルとクローンが会うことは禁じられている。たとえば自分と瓜二つの双子がいたとして、その双子の片割れを殺して臓器を移植するとなると心理的な負担が大きいのはわかりきったことで、そんな無用なトラブルを防ぐためにオリジナルとクローンが会うことが禁じられているのだ。
ところが本作の主人公である新次(井浦新)は施設の所長という権力者だから、禁止事項を無理やり曲げさせてまで自分のクローンに会いたいと言い出し始めることになり……。
※ 以下、ネタバレもあり!
新次の決断
新次は余命わずかと診断され、手術をしなければ来週には死ぬことになるのだという。施設では手術前に一週間のカウンセリングが行われることになっていて、新次にはまほろ(水原希子)という臨床心理士がつくことになる。新次はまほろの導きで過去を振り返ることになる。
ちなみに甲斐さやか監督のデビュー作『赤い雪 Red Snow』も、ある事件の記憶に囚われた主人公の物語だった(冒頭の白と赤を基調としたシーンが印象に残っている)。『徒花』の新次の場合も、死を前にして過去を振り返り、その自分の過去をクローンの来し方行く末と比較検討することになるのだ。
新次は今ではエリートだが、その地位を獲得するために犠牲を払ってきたらしい。「駆け引きばかりの人生」と語るように、自分の好きな生き方はできなかったらしい。母親(斉藤由貴)からは「強くなりなさい、そうすれば守られるから」と教えられ、そのために雁字搦めになってきたということなのだろう。
新次には好きな女性がいたようだ。海の近くのレストランでウェイトレスをしている女性(三浦透子)で、彼女は服のまま危険な海に潜ってしまうほど自由な人で、そんなところに新次は惹かれていたのだ。それでも新次はエリートになるために政略結婚を選んだということになる。
過去を振り返ったことがクローンとの対話にも影響してくる。新次のクローンは自分の運命を受け入れ、「ぼくはあなたの一部」とまで語る。オリジナルである自分は世間の荒波の中で揉まれて汚れたように感じていて、施設で無菌培養されたクローンのほうが純粋に映ったということなのだろう。だから自分よりもクローンのほうが生きる価値がある。新次はそんなふうに感じ、手術を受けないという選択をすることになるのだ。
徒花とは無駄なのか?
本作は新次とクローンの対話が見どころということになる(井浦新が声色を変えて二役を演じている)。派手さには欠けるし、劇伴も前半部はほとんど使われずとても静かな作品だ。桜が咲いている場面を除けばずっと薄暗い映像が続き、陰鬱な雰囲気でもある。
タイトルの「徒花」というのは「咲いても実を結ばずに散る花」のことを指す。ソメイヨシノも人間が作ったクローン桜で「徒花」とされ、「無駄花」と呼ばれることもあるとのこと。
新次のクローンはそんな徒花について語る。クローンは子孫を残すことはない。その意味ではクローンは徒花ということになるけれど、だからと言って無駄ではない。クローンは施設内でゴーストライターみたいな活動をしていて、そうした生き方に意義を見出してもいたからだろう。
クローンとしては、新次にスペアである自分の存在を哀れんでもらいたくなくてそんなことを言ったのかもしれない。しかしながら、新次はそれによって別のものを感じたのかもしれない。
新次は世間の荒波に打ち勝つために必死に足掻いてきた。それが今の地位を築いたわけだが、自分の分身とも思えるクローンを殺してまで自分が生き残ることを見苦しいと感じたのかもしれない。
先ほどは徒花とされる桜は無駄花とも呼ばれると記したけれど、日本人はそんな桜を愛でてきたわけで、桜はあっという間に散ってしまうからこそ美しいと感じてきたということでもある。実を結ぶことはないとはいえ、桜を無駄なものとはまったく思わないだろう。
たとえばアニメ『銀河鉄道999』では、永遠の命である機械の身体を手に入れた人の中には、なぜか自ら命を絶ってしまう人もいた。永遠の命を得たにも関わらず、あえて死を選ぶのだ。はかなさがあってこそ、命は美しい。新次が手術を断ったことにはそんな考えに至ったからなのかもしれない。
ただ、新次の行動は施設の運営に何らかの影響を与えたわけでもなく、ひっそりとまほろだけに引き継がれる。まほろは自分のクローンと出会い、自分のアイデンティティというものに疑問を抱くことになる。本作はまほろの混乱を描き、何かが大きく変化することもなく終わってしまうわけだが、これは観客への問題提起であるということなのだろう。
その問題提起は尤もだと思うけれど、クローンをはじめとする登場人物がみんな物分かりが良くて行儀が良すぎるのが気になった。予想外の展開というものがないのだ。新次の決断にしても意外にもさらりと描かれていて静謐さを感じる作品にはなっているのだが、その一方で観客を揺さぶってくるようなものもなく静かに終わってしまったようにも感じられた。
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