『二つの季節しかない村』 人間なんて……

外国映画

『昔々、アナトリアで』などのヌリ・ビルゲ・ジェイランの最新作。

カンヌ国際映画祭では最優秀女優賞(メルヴェ・ディズダル)を獲得した。

原題は「Kuru Otlar Ustune」で、英語のタイトルは「About Dry Grasses」。

物語

トルコ、東アナトリアにある、雪深いインジェス村の学校に赴任して4年が経つ美術教師サメット。なにもない村では、教師であるだけで尊敬される。学校では、女子生徒セヴィムに慕われ、サメットの部屋でおしゃべりをしたり、休暇に行けば、お土産に鏡をプレゼントしていた。
ある日、学校で荷物検査が行われる。サメットがプレゼントした鏡と共にラブレターを没収されるセヴィム。内容が気になったサメットは理由をつけてそのラブレターを手に入れる。「返してほしい」と涙ながらに訴えるセヴィムに「もう処分したから手元にない」と嘘をつくサメット。
その日から、セヴィムの態度は変わった。セヴィムは友人と共謀して、「サメットとケナンに不適切な接触をされた」と虚偽の訴えを起こし、ふたりは窮地に立たされる。

(公式サイトより抜粋)

長い長い会話劇

カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した『雪の轍』は196分、前作の『読まれなかった小説』も189分の長尺で、3時間超えが当たり前というヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の最新作。

『二つの季節しかない村』も198分という相変わらずの長尺で、延々と会話劇が続いていく。仕事の疲れも溜まる金曜の夜にその長尺は無理かもしれないという懸念もあったのだが、実際に映画が始まってみればそれほど長尺が気になることもなく完走できた。もしかすると主人公のサメット(デニズ・ジェリオウル)のクズっぷりが興味深かったからかもしれない。

トルコでは先生は尊敬される職業ということで、サメットは村の人々からとても慕われている。クラスの女の子セヴィム(エジェ・バージ)もそんなサメットを慕い、いつも彼がこもっている用務員室みたいな部屋に出入りしている。

ところが抜き打ちの持ち物検査があり、状況が変わる。セヴィムの鞄からはサメットが贈った鏡と、彼女が書いたラブレターが出てきて没収されることになる。サメットはその没収品を取り返すのだが、「手紙を返してほしい」というセヴィムに「破いて捨てた」と嘘をつくことになるのだ。

セヴィムはそれから態度を変化させ、教育委員会のようなところへサメットを告発することになる。サメットは「不適切な接触」があったという身に覚えのない訴えによって、たちまち村での評判を落とすことになるのだが……。

©2023 NBC FILM/ MEMENTO PRODUCTION/ KOMPLIZEN FILM/ SECOND LAND / FILM I VAST / ARTE FRANCE CINEMA/ BAYERISCHER RUNDFUNK / TRT SİNEMA / PLAYTIME

人間なんてそんなもの

サメットは生徒から告発されることになるけれど、訴えた側の秘密は守られる。そうなるとサメットとしては誰に訴えられているのかもわからないわけで、対処のしようがないとも言える。「不適切な接触」がないと反論するにしても、その相手が誰なのかということがサメットには秘されているわけだからだ。

ただ、本作はそんな「不適切な接触」を巡る争いを追う方向へと展開していくわけではない。校長はそれを公に訴えることになるものの、もっと話が大きくなる前に横槍が入り、うまく処理されて有耶無耶になるからだ。

では本作では何が描かれているのかということになるわけだが、それは「人間なんてそんなもの」といったことだったように思えた(実は『雪の轍』の時も同じようなことを書いている)。サメットは結局彼のことを訴えた犯人を探し出し、目をかけていたセヴィムに裏切られたと知ると、教師とは思えないような酷い仕打ちでセヴィムに仕返しをする。さらにはクラス生徒たちにも、お前たちは農民なんだから勉強なんかしたって意味がないなどと暴言を吐くことになるのだ。

サメットは先生とは言え、人格者にはほど遠い男だ。何でも田舎の土地のせいにして、自分だけは都会に脱出しようと考え、現状に対する文句を垂れるばかりなのだ。先生として慕われているうちはよかったものの、それもなくなれば素の部分が出てくる。赴任先が変われば二度と会わないであろうその土地の連中などどうでもいいと考えているからこそ、そんな酷い態度がとれるのだ。何とも浅ましい男なのだが、「人間なんてそんなもの」なのだろう。

©2023 NBC FILM/ MEMENTO PRODUCTION/ KOMPLIZEN FILM/ SECOND LAND / FILM I VAST / ARTE FRANCE CINEMA/ BAYERISCHER RUNDFUNK / TRT SİNEMA / PLAYTIME

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会話の行き着く先は?

『二つの季節しかない村』で特に印象に残るのが、終盤にある長い長い会話だ。この会話は主人公サメットと、片足の英語教師ヌライ(メルヴェ・ディズダル)との間で交わされる。トルコの政治状況はよく知らないけれど、サメットの友人としてテロリストを自称するキャラが顔を出したりするところからすると、不安定な状況なのかもしれない。ヌライが片足を失ったのは爆弾テロに巻き込まれたからなのだ。

そんなヌライとサメットとの会話は、政治的な行動を訴えるヌライと、傍から見て批判ばかりのサメットという構図になるだろうか。理想主義者と現実主義者の会話とも言えるし、連帯と自由を巡る会話とも言える(このあたりは『プラットフォーム2』とつながる部分もある気もした)。

ただ、こうした会話が本作のテーマを表しているのかと言えば、そんなふうには感じられない。二人は散々互いを非難し合っているように見えたわけだが、最終的にはその会話が行き着くところはなぜか男女の関係ということになるからだ。

ヌライはサメットとベッド・インするつもりなどなかったはずだ。二人の関係は微妙で、その会話がなされている背景には別のものがある。サメットはヌライを知人に紹介されたらしいのだが、サメットとヌライは教師同士の行儀のいい付き合いに過ぎなかった。

だからサメットは同居人であるケナン(ムサブ・エキジ)に彼女を紹介することになる。ケナンは結婚相手を探していて、サメットとしても教師であるヌライはピッタリだと思ったのかもしれない。ところがサメットは自分でケナンに結婚をけしかけておいて、二人が急接近するとおもしろくないのだ。

ほかにも「不適切な接触」事件のことも理由としてはあるのだが、とにかくサメットはケナンに対する嫌がらせのような形で、興味もなかったヌライに近づくことになるのだ。ヌライにしてもケナンとのことを考えれば、サメットのことを拒否してもよかったはずだが、なぜかヌライもサメットを受け入れることになる。

サメットにしてもヌライにしてもやっていることは矛盾だらけということになるだろう。それでもそんなところがとても人間臭いし、「人間なんてそんなもの」という感覚を抱かせることになる。

サメットを告発したセヴィムもそうだ。セヴィムはサメットを陥れようとしていたくせに、卒業式のパーティーにはそんなことは忘れたかのような笑顔でセヴィムの前に現れる。これは一体どういうつもりだったのか? それに対して、サメットは「何か言うことはないか」などと彼女に対して未だ何かを期待しているようなことを言いつつも、自分が嘘をついたことは棚に上げている。「人間なんてそんなもの」と言ったけれど、それをもっと細かく言えば矛盾だらけでとても複雑な生き物ということなのだろう。

私はサメットのことをクズ呼ばわりしたし確かにクズだとも思うけれど、それでも清廉潔白で誰にも後ろ指を指されることのまったくない人のほうが珍しい生き物なんじゃないのだろうか。サメットのことを“興味深い”と記したけれど、それは自分にも近しいところがあるからかもしれない。

©2023 NBC FILM/ MEMENTO PRODUCTION/ KOMPLIZEN FILM/ SECOND LAND / FILM I VAST / ARTE FRANCE CINEMA/ BAYERISCHER RUNDFUNK / TRT SİNEMA / PLAYTIME

風景描写が表すものは?

何度も会話劇と記してきたし、そのことは間違っていないのだが、それほど多くはない風景描写がとても印象的なのがヌリ・ビルゲ・ジェイランの作品だ。冒頭は、シネスコのスクリーンいっぱいに広がる雪景色だ。遠くに見える山も、その向こうの空の色も真っ白で、道端にある交通標識の赤だけが浮かんでいるようにすら見える。

全編ほとんど雪の世界だが、最後にいきなり夏がやってくる。普通の場所ならば冬の後には春が来て、植物が萌え出るような豊かな季節があるわけだが、この土地はそうではないらしい。冬の後にはすぐに夏になってしまい、植物の緑はすぐに枯れてしまいどこか荒涼とした風景が広がることになる。そんな大地をローアングルで捉えたシーンは『人情紙風船』のワンシーンみたいだったし、日の光にカメラを向けた場面は『太陽がひとりぼっち』なんかを思わせる気がした。こうした風景は主人公サメットの荒んだ心を表しているのかもしれない。

サメットとヌライの長い長い会話の後には、唐突にメタフィクション的なシーンが挿入されている。サメットがヌライの部屋を出ると、そこは本作を撮影しているスタジオであり、サメットはスタジオ内の控室で髪を整えてから再び物語の内部に帰還してくる。これが一体どういう意図なのかは正直わからないけれど、『昔々、アナトリアで』でも感じた語り口の自由さもこの監督の魅力なんじゃないだろうか。

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