監督・脚本は『1秒先の彼女』のチェン・ユーシュン。
本作は台湾の金馬奨では最優秀作品賞を含む4部門を獲得した。
原題は「大濛」で、英語のタイトルは「A Foggy Tale」。
物語
1950年代、戒厳令下の台湾。
白色テロにより反政府分子として捕らえられた兄が台北で処刑されたと知った少女・阿月(アグエー)は、故郷の嘉義から、なけなしの金と兄の形見の時計を手に、遺体を引き取るため一人台北へ向かう。しかし遺体を引き取るには高額な手数料が必要で、途方に暮れてしまう。怪しい男に騙され、遊郭に売り飛ばされそうになったその時、彼女を救ったのは人力車の車夫・趙公道(ザオ・ゴンダオ)だった。
中国・広東出身の公道は、国民党軍の元軍人として台湾に渡って以来、故郷へ帰ることもかなわず、その日暮らしの生活を送っている。白色テロで軍の仲間を喪い、人生に行き場を見いだせずにいた彼は、阿月の想いに心を動かされ、手を差し伸べることを決意する。先の見えない時代の激流の中で出会った二人の運命が大きく動き出していく……。
(公式サイトより抜粋)
白色テロの時代
『霧のごとく』は1950年代の戒厳令下の台湾を描いている。この台湾の戒厳令というのは世界最長の期間だったそうで、約38年間も続いたということらしい。戒厳令が発布されること自体が異常な事態なわけで、この時期の台湾の混乱を示しているのだろう。
この戒厳令のきっかけになった事件が「二・二八事件」とされ、これに関しては『悲情城市』(侯孝賢監督)という作品に描かれていた。「二・二八事件」というのは、台北市で起きた民衆の蜂起と、それに対する政府の武力弾圧だ。
第二次世界大戦後に中国の統治下に編入されることになった台湾では、もともと台湾に住んでいた人を本省人と呼び、戦争後に中国から渡ってきた人を外省人と呼ぶ。「二・二八事件」というのは本省人と外省人との対立が背景になっている。中国からやってきた少数の外省人たちが、もともと台湾にいた本省人を支配し、それに対する反発が反政府運動へとつながったということなのだろう。
そして、台湾の「白色テロ」というのは、「中国国民党政権が反体制派に対して行った政治的弾圧のこと」を指す。この時代には多くの人が反体制派を疑われ、逮捕・処刑されることになったらしい。その中には遺体すら見つからない人も多かったとのこと。本作の主人公・阿月の兄は、そうした反体制派として処刑された人のひとりということになる。

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チェン・ユーシュンが描く台湾史
本作はチェン・ユーシュンの最新作だが、これまでの作品とはだいぶ毛色が違っている。チェン・ユーシュンのフィルモグラフィは、どれもがコメディに分類される作品ばかりだからだ。前作『1秒先の彼女』でも悪ふざけのようなところがあったし、『祝宴! シェフ』ではもっとバカ騒ぎに徹している。
そんなチェン・ユーシュンだけに本作の題材はちょっと意外な気もした。本作は台湾の歴史や政治問題を取り扱うことになるからだ。けれども『霧のごとく』は台湾の歴史を大局的に描くのではなく、ほとんどある少女の視点からだけで描くことで、『熱帯魚』以来のチェン・ユーシュンらしい「小人物の物語」になっている。
ひたすら一途な阿月(ケイトリン・ファン)と、賑やかだけれど良心は失っていない公道(ウィル・オー)。この二人のやり取りが何とも微笑ましくて、重苦しい題材を描いているにもかかわらずあまり辛くなることもなく話を追うことができるのだ。
二人は時代に翻弄される。阿月は兄を処刑され、その遺体を引き取りにひとりで台北へと向かう。公道は軍隊に入って中国から渡ってきたらしい。しかし戦争が終わっても故郷へと戻ることもできず、戦友たちの骨と一緒に台湾で人力車の車夫をしながらその日暮らしをしている。
本作は阿月と公道とが遺体の引き取りのために、台北市内のあちこちを旅をして回るロードムービーのような趣きがある。「公道」という名前は「正義」を意味するのだが、公道自身は決して善人というわけではない。それでもけなげな阿月に同情してしまう。阿月は金を作るために自分が売り飛ばされても構わないとまで必死になっていて、公道はそんな阿月のために一肌脱ぐことになるのだが……。

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知らなかった歴史
本作はフィクションだが、チェン・ユーシュンが調べた様々な事実に基づいているとされる。阿月はチェン・ユーシュンの母親と同じ年齢という設定らしい。その子ども世代が、自分たちが知らなかった時代のことを描いているということになるのだ。
先ほどは「二・二八事件」の背後には、本省人と外省人の対立があると記したけれど、本作によれば本省人と外省人の関係も一様ではないということなのかもしれない。
劇中では“警察”と呼ばれていた男は中国からやってきた外省人で、この男が本作では政府機関の象徴のような役割を担っている。一方で公道も中国からやってきたわけだから外省人だ。しかし公道は軍隊時代の上司が反体制派だったことから、この“警察”にも目をつけられていて、かつては拷問されたこともあったらしい。そんな外省人の公道が、本省人である阿月を助けることになるのだ。
公道は阿月のために金を作ろうとして、“警察”を暗殺しようとする。この暗殺は未遂に終わるのだが、この事件には本省人と外省人の対立に、さらに私怨なども複雑に絡んでくることになる。それに巻き込まれる形になった公道は、逮捕されて阿月の前から姿を消すことになるが、公道の頑張りもあって阿月は何とか兄の遺体を取り戻すことに成功するのだ。

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霧と雲の違い?
阿月の兄・阿雲(ツェン・ジンホア)は台北で学問を学んだらしい。そのこともあって台湾の現状に憂いを抱いたということなのか、反政府運動に組することになったようだ。阿雲は逮捕される前に阿月にある絵本のことを話していた。本作ではこの絵本について、2種類のバージョンが語られることになる。
ひとつは阿月に語ったものだ。もうひとつは阿月の姉・阿霞(9m88)に語ったものということになる。この2種類のバージョンにはどんな意味が込められているのだろうか?
この絵本の主人公は雨の雫だ。阿雲が阿霞に語ったバージョンでは、雫は雲になることができずに霧のように地表に漂い、やがて消えてしまう。しかし阿月に語ったバージョンでは、雫は雲になって世界を上から眺めることができた。
ちなみに本作の原題は「大濛」というものだ。これは霧が立ち込める様子を示していると同時に、「白色テロ」の時代の先の見えない様子のことを指しているともされる。
雲になれるバージョンと、霧になってしまうバージョン。霧は雲になった雫を見て羨むこともあるとされる。そうすると雲バージョンは理想的な姿で、霧バージョンは現実的な姿ということなのかもしれない。
ちなみにその絵本を語るのは阿雲というわけで、雲というのは自分の名前でもあったわけだ。雲になれるバージョンは、阿雲が本来の姿になるという意味でもあるのだろう。
雲バージョンでは阿雲は阿月に対して希望を熱く語っていた。今は民国42年で、今はサトウキビ畑に隠れているけれど、時が進めばそれは変わるかもしれない。阿月も結婚して子どもを産むことになるかもしれない。台湾自体も、今のような弾圧はなくなるかもしれない。そして、雫が雲が雨になって降り注いでいけば、もしかすると砂漠だってそのうちには緑の森になるかもしれない。そんな希望が語られるのだ。
しかし霧バージョンではそうはならない。雲になりたかった雫は、空高く舞い上がることはできず地表あたりに霧となって立ち込める。そして、その霧はそのうちに消えていってしまう。この霧というのが現実の阿雲であり、同じように阿月の前から姿を消してしまった公道のような人たちだったのだろう。本作はそういう霧のように消えていった人たちのことを忘れてはいけないという想いから生まれた作品なのだ。
ここでは詳しく触れないけれど、本作はエピローグが泣かせる。阿月と公道の互いに対する想いというものが明らかになるからだ。ここで一気に涙腺が崩壊することになるだろう。
チェン・ユーシュン作品はほとんどハズレがない。前作の『1秒先の彼女』もその年の「ベスト10」に選んだけれど、『霧のごとく』もそうなる可能性は高い気がする。





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