『名無し』 フェイシズ

日本映画

原作・脚本・主演は『爆弾』佐藤二朗

監督・共同脚本は『嗤う蟲』城定秀夫

物語

昼下がりのファミレスで、残忍な殺人事件が発生する。防犯カメラには、犯人と思われる坊主頭の中年男が映っていたが、男の手には凶器のようなものはない。男が近づき、軽く接触するだけで人が血を吹き出して倒れていくという異様な光景が記録されていた。捜査を進める警察は、坊主頭の男が11年前に万引きの疑いで調書を取られた「山田太郎」と同一人物であることを突き止める。山田の自宅住所に急行した捜査員が目にしたものは、腐敗した女性の遺体だった。

『映画.com』より抜粋)

見えない武器?

ファミレス内での連続殺人事件。防犯カメラには、犯人の姿も犯行の様子もしっかりと捉えられている。しかし、なぜか凶器が一切見えない。一体どういうトリックなのか? 本作はそんな摩訶不思議なエピソードから始まる。

劇中でわざわざ警察官に「オカルトの類いは信じない」と言わせているけれど、これはオカルト以外の何ものでもない。この現象に合理的な説明をすることはできないのだ。

『名無し』は連続殺人を繰り返す男・山田太郎(佐藤二朗)の凶行を追うと共に、幼い頃、遺棄児だった太郎(和彦)の過去を描いていくことになる。次第にわかってくることは、太郎は恐らく生まれた時からその特殊な力を持っていたということだ。その力ゆえに、彼は名前を付けてもらうこともなく遺棄されたのかもしれない。

“山田太郎”という名前は、彼をたまたま保護した警察官の照夫(丸山隆平)が付けたものだ。一緒に保護された女の子と共に、“山田太郎”と“山田花子”という適当な思い付きでつけたような名前になっているのだ。

太郎は照夫と会った時、右手を使えないように腕に縛り付けている。自分でも右手を使うことの恐ろしさをよく理解していたからなのだろう。というのも、太郎の右手は触れたものが無機物ならそれを見えなくしてしまう。さらには生き物に触れると、その生き物の命を奪うことになってしまう。なぜかはわからないけれど、太郎の右手にはそんな特殊な力が備わっているのだ。

©佐藤二朗 永田諒 / ヒーローズ ©2026映画「名無し」FILM PARTNERS

気まぐれなカード配り

太郎の右手の能力は神様から授かったギフトなのだろうか。太郎からすれば、それは“呪い”のように感じられているのだろう。太郎はその力のおかげでうまく人と接することができない。右手を触れれば相手は死んでしまうのだから。

太郎はその能力に困惑している。劇中の太郎はほとんど言葉を発することがない。太郎のほとんど唯一と言ってもいい台詞が「もし神様、暇してるなら、俺と手を繋ごうよ」というものだった。この台詞は神様に救いを求めているとも、その逆に彼にそんな能力を授けた神様の命を奪おうとしているようにも思える。

太郎の能力はオカルトチックだし、非現実的な設定になっている。しかしながら人は誰しもほかの人と違うところがあるわけで、なぜ自分がこんなものを背負わなければならないのかという疑問に駆られることがある。その極端な例が太郎の特殊能力なのだ。

原作を書いた佐藤二朗は、インタビューでこのことを「神様の気まぐれなカード配り」という言い方をしている。この神様は気まぐれすぎるのか、配られたカードは平等とは言い難いようで、時にはクソみたいなカードばかりになってしまう場合もある。そんな時、「なぜ自分がこんなカードを?」という気持ちになるだろう。

太郎という主人公が背負っているものはかなり特殊で極端な事例ではあるけれど、狙いとしては誰もが感じる「なぜ自分が?」といった想いなのだ。

※ 以下、ネタバレもあり!

©佐藤二朗 永田諒 / ヒーローズ ©2026映画「名無し」FILM PARTNERS

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人とのつながり

そんな特殊能力を抱えた太郎は、最終的には連続殺人鬼になってしまう。この行為には誰も同情できないだろうし、太郎を追っている刑事・国枝(佐々木蔵之介)が言うように太郎は“クソ”でしかない。

ただ、本作は逆説的に「人とのつながり」ということの大切さを示してもいる。太郎が自分の特殊能力を活用して連続殺人に及んだのは、花子(MEGUMI)の死がきっかけになっている。

太郎と唯一つながりを持っていた花子は太郎の子どもを妊娠していたのだが、子どもを産む前に姿を消してしまう。それから10年の月日が流れ、二人はばったり再会する。太郎はその間、一人で子どもの誕生日を祝っていた。ところが花子は子どもは堕ろしたと打ち明ける。その言葉が太郎に花子を殺させるのだ。

そして、この世界と一切のつながりを失ってしまった太郎は、連続殺人鬼と化すことになってしまう(その前に照夫を殺してしまったことも大きな要因だろう)。「人とのつながり」を絶たれたことが、太郎を狂気に導いてしまうのだ。そのことが逆に「人とのつながり」があれば、何とか生きていけるということを示しているようでもあるのだ。

©佐藤二朗 永田諒 / ヒーローズ ©2026映画「名無し」FILM PARTNERS

フェイシズ

太郎の連続殺人は、神様に自分の存在をアピールするためだったのだろうか? 太郎はひとしきり人を殺した後に、「もし神様、暇してるなら、俺と手を繋ごうよ」とつぶやき、空を見上げることになる。

もし神様がいるならば、そんな行為を見逃すはずがないだろうということだろうか。それでも神様からは何の音沙汰もないようで、彼に引導を渡すことになるのは、恐らく太郎の息子だ。

花子は堕胎したと嘘をついていたのだ。ラストでは二人が握手することでつながるのだが、それによって太郎だけが死ぬことになる。本作の設定には、命を奪うには相手の名前を知らなければならないというものがある。息子は父親の名前を聞かされていたのだろう。一方で、太郎は自分の子どもの名付け親にはなれなかったため、太郎だけが死ぬことになったのだ。

この息子には太郎と同じ特殊能力が継承されていたというわけだ。息子は最後に「天に唾する」ことになるけれど、この報いは当然ながら自分に返ってくることになるわけで、息子の未来も危ういものなのかもしれない。

本作はまったく共感性に欠けるし、陰陰滅滅とした話ではある。それでも素晴らしかったのは、本作が人の顔を存分に見せてくれる作品になっていたところだろうか。

先日取り上げた『スター・ウォーズ/マンダロリアン・アンド・グローグー』とまったく正反対の映画になっているのだ。『マンダロリアン』は実写作品にもかかわらず、ほとんど人の顔というものが見えない作品になっていて、そこが個人的には退屈だった。

それに対して『名無し』は、顔が重要な要素になっている。タイトルが出るところも山田太郎の顔のドアップだったし、台詞がほとんどないにもかかわらず顔だけで困惑や歓喜や絶望といったものを感じさせ、顔で物語を語っていくような作品なのだ。

この週末に観た作品はそんなふうにまったく対照的な作品になっていて、『マンダロリアン』を顔が見えないとしてけなしたわけで、『名無し』のほうはそれこそ佐藤二朗の顔が満載で(子役の顔も素晴らしい)、それだけで観ていて飽きなかったし、その点で擁護せざるを得ないのだ。

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